目 次
●東 北
東北文化の特質
東北文学吹き寄せ
東北の古典文学 連歌師は情報師 鐘と鉄砲 水城と海賊 芭蕉と三井東北チェーン 建部清庵の疑問 平賀源内と二人の理兵衛 郊外人の知性 山形の戯作者 春の本・春の音
東北芸能の古典性
女系の文学――東北
聖なる技能集団 memo
T 軍記の沙汰も金次第 U 情報は聖(ひじり)や連歌師から
砂金と鉄砲衆
桃太郎と箱舟型モチーフ
近世の東北・北海道俳壇
元禄文学の状況――東国
春の裏側
牛門虫声――「松島、象潟の月」の陰に
菅江真澄はなぜ北へ
真澄住居資料 蝦夷地めざした三人――東作、真澄、檍丸(あおきまろ)memo 花巻の宿 真澄の眼と風景
庄内の洒落本
●秋 田
こまち号発進!――小野小町小考
説話の構造――県南の義経、貞任、田村麻呂、曽我 memo
八郎太郎神話の構造
男鹿の文学的構造 memo
ハタハタ水軍と軍資金――軍記物の背景 memo
降りきてや――梅津政景の連歌
桂葉と西鶴
羽州野代港柳町――遊女の歌謡
留守居役そして戯作者
秋田蘭画の裏面――新資料と佐竹義敦の心疾
佐藤信淵と地方都市論 memo
円印(まとい)奉行――大名火消ばなし
衆楽園詩会
東北と秋田の文学
道奥終の棲みか古典ノート
序 唱 ●道奥終の棲みか論
東北には女系の物語が多い。
福島県の南端、いわき市勿来ノ関跡近くに、国宝白水阿弥陀堂のたたずまいが見える。優雅な方形造りは、奇妙なことだが、エロスさえ感じてならない。十二世紀半ば平安後期、鎮守府将軍藤原清衡女徳姫が、亡き夫岩城大夫則道慰霊のため建てたとされる。道奥の南戸口に女人の寺が立ちあらわれるように、女系の説話が東北におびただしい。
例をひいてみよう。前九年ノ役、後三年ノ役で、安倍、清原、藤原氏の女が敵方の若大将に恋し、もしくは亡夫を尋ねあるき、非業の死となる説話が、東北一円にひろがる。十一世紀末、金沢ノ柵(横手市)落城のときは、夫たちの首を刺した鉾の列なりのあとに、その妻たちが泣きながら従っていった。(奥州後三年記)
七百年ほど経った。日本海岸から東北入りした三河の紀行家菅江真澄は、北の女らしい情景に目を澄ます。弓を腰にした盲目の老尼が仲間数人を綱でつなぎ、一列になって最上川堤を渡っていく(秋田のかりね・天明4)。梓巫女の一団になるが、読者は先の金沢ノ柵の場面とかさなり、悲しい女たちのシルエットになって記憶されるにちがいない。
室町物語『花鳥風月』には羽黒巫女らしき姉妹が、梓の真弓をかきならし、口寄せする姿が描かれる。宮城県塩竈神社を訪れたとき、捕虜となった安倍宗任を、思案橋に立って慕う妻の哀話を、観光ガイドが説明していた。思案橋、面影橋、戻り橋などの名は、橋下で歌占をする巫女たちの影をしのばせよう。
雪の国にはイチコ・イタコ、オシラさま、歩き巫女、熊野比丘尼、善光寺聖、修験山伏、祭文語り、御夢想、ボサマ(遊芸盲人)ら、男や女たちのエレジーを語って田舎わたらいする土俗的な唱導者がめだったはずだ。運命の拙き人たちへの鎮魂と供養の風土になる。中世芸能の山伏神楽、番楽にせよ、「義経(九郎の名)」と「曽我(五郎の名)」物だけは失っていないのは、鎮魂再生を祈る御霊信仰(クロウ・ゴロウ→ゴリョウ)によるだろう。落城説話の武将に五郎という名が多いのも、この信仰にちなむはずだ。
古代の蝦夷時代から風雪、凶作、戦乱に耐えしのび、同族が肩を寄せあい命をつないできたのが東北地方だ。遠来の訪問者をも運命拙き人と感得して遇するホスピタリティのお国ぶりである。ために往昔から、悲運逆境の人は、寒くても心暖かい北の国をめざしていくのをならいとした。
弱者の群れの東北行は、はやくも古代にみられる。八世紀半ば、「不孝、不恭、不友、不順ノ者アラバ、陸奥国桃生、出羽小勝(秋田県雄勝郡辺の柵)ニ配スベシ」(天平宝字元年7月・類従国史)で、ほかに殺人者、叛乱者、勅書偽造者、浮浪者、没官奴、没官婢らが、移民となって北の城柵に赴く。(続日本紀)
弱者や負の性格者は、都市化に比例して多様になっていく。十世紀の侘人(古今集秋下)、要なき男(伊勢物語)あたりにはじまり、閑素幽栖の侘士(海道記、一二二三頃)、世すて人(徒然草一段、一三三一頃)と漢語系の隠者、隠世者と別な民間側の呼称が中世から増してきた。濁世塵界を避け、自己凝視の空間として草の庵・草庵が工夫される。草庵の延長に歌枕のひろがる東北があった。具体的にたどってみよう。
十世紀半ばの『平中物語』では、当代きっての色好み平貞文が、その道にさわりあって官を召しあげられ、「心慰めに東国の方へまからむ」と出立する。十三世紀初め『古事談』第二では、藤原実方が口論相手の藤原行成の冠をうばって投げつけ、殿上を退出する。歌人同士のいさかいを見られた一条帝は、冷静だった行成を蔵人頭に任じ、実方には「歌枕見テ参レ」と陸奥守にして旅立たせる。
北へいくのを敗北などと語るのは、知った顔のさかしらであろう。さきの引用をつぶさに鑑賞されたい。道奥へ赴く理由を、「心慰めに」「歌枕を見」にとする。十世紀初め『伊勢物語』のむかし男にいたっては、「身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めに」で、東国つまり北の方を詩情漂う歌枕ゆたかな、そして人間らしい生き方の可能な国と、あくがれの目を向けたのである。
逆に京六条河原院の源融は東北に郷愁をいだき、Uターンの夢をむすぶ。三千人をやとい、難波の海水を運ばせて塩釜で焼き、その烟りで塩竈の景を再現したと、能「融」が演じる。茶人であれば葉茶壷の「松島」「象潟」(分類草人木・永禄7)を手にしただけで、しるき歌枕の景を喚起せねばならなかった。
近世にはいると、さまざまの生活革命がおきた。金権体制が喧噪の巷を捲きあげ、心ある者の脱都市型がめだち、新たな弱者も増してくる。「常軌を逸する興がり者」(日葡辞書)や仮名草紙の「都にありても、さらに益なし」(竹斎)、「用にもたたぬものを、ゆうみんと申候」(清水物語・上)、「すりきり浪人」(可笑記五―一九)、「世になし者のはて」(東海道名所記)と多彩になった。
そうした一群は中世の「いづくもつひのすみかならねばとおもひなしつゝ、しらぬひのつくしをたちいで」(宗久「都のつと」観応、一三五一頃)と、終の棲みかをさがして旅立つ理念をうけついでいた。注意したいのは、右の一群――文芸の連歌師、歌人、俳諧師から漂泊の芸能・舌耕の徒にいたるまで、法体に身をやつすことだ。おそらく貧賤にこだわらず、右にも左にも属さぬ脱俗風雅の自由人の表象こそ、剃髪といった意味作用だったはずだ。
自由人としての文人墨客を志す者は、まずもって髪を落とし、奥羽行脚をはたすことだった。寛文九年(一六六九)薙髪して伊勢松坂在から松島まで北上、雄島に庵を結んだのが大淀三千風である。そのあと元禄の芭蕉は西行入寂五百年を数え、追尋の行脚をこころみた。
旅路のさなか平泉光堂と出羽月山に、日月対称の曼陀羅幻想をえがいたゆえになろうか、以降奥のほそ道は風雅の人たちのメッカになる。「先師の枝折を尋、松島の夕陽、蚶潟の朝旭をたどりぬ」(桃隣『陸奥鵆』元禄9)、「松島の松に吹かれ、象潟の合歓に下臥して」(暁台『二編しをり萩』明和7)の紀行のようにだ。
近世末に近づいても、「ばせをの翁のながれをまなぶものなるが、松がうらしま、象がたのながめせんとて、はるばると来たれるなり」(上田秋成『癇癖談』文政5)と、東北行衰えることがなく、かえって烈しさを増すほどだった。そして戯作者平秩東作にみられるように、「松嶋、象潟の月を見に参り候積りに候」(蝦夷地一件一―二、天明3)で、ご法度の松前・江刺密航探査の口実にする例さえあった。弱者を暖かに迎えて胸の傷手をいやす、異人歓待の風土に変わりはない。
言ってみれば北辺の酷寒地が東北である。ここに派遣される古代の武人に、歌詠みが多いのはなぜだろう。追い散らされる蝦夷とよばれた道奥人の哀傷を測れることで、詩人としての自覚をかろうじて支えたのだろうか。十一世紀初めの能因歌枕は陸奥四一、出羽一九、計六〇で、全国の四半分にあたる。東北を訪れざるをえない、おびただしい詩魂の飛びかう聖なる地であった。
従って、東北への旅人には、冠をただし衣装をあらため(清輔袋草紙、愚秘抄、西公談抄、俊秘抄)、でなくばせめて卯ノ花の一枝でも挿頭にいたし(奥のほそ道)、道奥入りしなくばならぬ不文律があった。やはり東北の前門には、訪問者に暖かな手をさしのべる女人の阿弥陀堂があるべきである。ここには「何くか終の住家なる」(能「西行桜」)と、ある感慨をもって尋ね来る人が絶えぬからだ。
風景をながめよう。さまざまな記憶がよみがえる。よく思いだす言葉anamnesis・喚起の領分になる。なおまた自分に空しさがめぐってきた時、土と水のかたえに立ち、風土にさらされた地霊と問答することだ。
今もあれ、北に向かう旅行者は、道奥が悲哀と鎮魂の文学の詰まった、きらめくばかりの寄せ木箱と知るだろう。
|