押切順三/自作詩覚え書

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 1     「良民票」 H19年7月12日(木) 
 詩の、自分の作品に解説を書き加えねばならぬというのはおかしな事だが、もともと私は、私の詩なるものは、私自身のメッセージのテキストみたいなものという思いがあって、文学創造なんて、大げさなものではなかった。この解説ふう覚え書きなるものも、そのテキストの補充というつもりだ。
 この「良民票」のモチーフは、あの戦争での、私の兵隊としての体験からでたもの。もう五十年余の昔の事になる。なるほど、そんな時間がたっては、詩に解説も必要になってくるのだ。
 それと、私の戦争を「風化」させてはならぬ、そんな思いを重ねて、これを書く。
 一九四二年の春、二度目の召集で私は、海を渡って中国山西省の奥地で「陸軍二等兵」としての兵隊ぐらしをした。城門につめて、そこを出入りする民衆の荷物を改めたりした。城外の耕地にでる農民がほとんどだった。みんな懐が「良民票」なる書き付けを出した。紙に筆字で、名前と年齢、住所などが書き込んであって、村長かの大きな角印が押されてあった。兵隊はそれを仔細らしく点検などしたりして、銃剣の先であっちに行けと示した。
 (あの戦争はなんであったか。天皇の名による侵略戦争でなくてなんだ。)「良民」とは、侵略者にとっての良民であった。あの大きな角印は、被占領地民衆の抵抗であり、知恵であったであろう。
 さて、その「良民票」が下敷きになってこの詩となった。この「良民票」はいまも確かに存在する。今のは、顔写真を貼って番号を付けたカードだろう。区分され、チェックされて、支配の刻印が打ちこまれるのか。それを胸に下げて、ぞろぞろ列をなして食糧配給所に向かう、登録所に行く。あるいはそのカードを掲げて、Help!Help!と、右往左往する。この詩を書いたのは、一九九三年六月のことだから、カンボジアの映像とつながる。この国もいつの間にか、王さまの国となった。どんなからくりがあるのか。民主化とはそんな終結であるのか。ともかく、民衆は番号をうたれ、区分され、Help!Help!と叫び続ける。むかし「皇」(すめろ)という言葉があって、「皇民化」すること、つまり、天皇の民とするという事であって、良民化につながる思想であった。
 さて、詩の終連になる。日の丸の小旗をふって参賀の行列。いつしか恒例の「風俗化」として染みこんできた。われは皇民―良民、なりとぞろぞろと進む。日本も次第にカミサマの国になるのか。
 以上、自作詩について無駄口をたたいたが、私自身の、自戒のためにでもある。隷属しない、支配されぬ、われ良民に非ずの思いである。
 この詩は、私の手づくり小詩集九三年版で発表、次いで『秋田県現代詩年鑑』にも載せた。
 
 2     「山上部落」 H19年7月12日(木) 
 男子はすべて二十歳になると、徴兵検査を受けて兵役につく義務があった。私は昭和十三年(一九三八年)のこと。結果は第二乙種補充兵であった。甲種と第一乙はその年、現役兵として兵隊になった。それ以下では体裁悪いが、第二乙でまあまあと内心ホッとしたものだ。その安心も束の間、昭和十五年(一九四〇年)の臨時召集で、秋田歩兵十七聯隊入隊、五か月ほどの兵隊訓練を受けた。いずれはと思っていたが昭和十七年四月、二回目の臨時召集(こんどは秋田編成の勝部隊で戦地派遣、ここでも陸軍兵二等兵。秋田を発って宇品港から釜山上陸、そして戦地へと輸送された。行き着く先は中国山西省の奥地。そこは一帯の黄土地帯、汾河にそうて同蒲線という鉄道が平易地を縦断して南の黄河に至る。中隊は分散して分遣隊として各地の警備についた。正に点と点をつなぐだけの占領だった。兵隊の私はそのいくつかの分哨をまわった。生き死にの場面もあった。そのなかの一つ、「三二高地」というのがある。山西省の西を連枝山系が南北に走る。その山岳地帯と平地の境目の頂点に警備哨があった。となりの陣地は「二八高地」という。ともに現地の名は知らぬ。標高からの作戦據点であろう。挾間を通る物流や移動を監視する役目だったようだ。三二高地は丸裸の突出で、てっぺんに石で固めた望楼、裏手の窪地に兵舎があり、通信班も配属されていた。たしかに下界を一望できる頂点であった。春は桃の花に彩られる村々、その周辺の耕地の春秋はいちめん黄のじゅうたん。タツマキを何度か見た。縄のようにねじれ空にかけのぼったタツマキは、私の目の高さで消滅した。それが何本も、現れては消えた。「龍」というのはこれから形をなしたのかと私は納得した。南に位置する二八高地の陣地には、巨木が立ち、たしか廟の形が残っていた。
 この三二高地山頂の警備哨の勤務は私は長くはない。兵はそれぞれに交替をした。私にはこの山頂での印象が強く残った。あの眺望、そして、あのタツマキ、地表から立ちのぼる、よじれ、巻きあがるエネルギー、これは人民の意志だ、力だと私は感得した。日本軍、三二高地警備部隊の一人の兵なんて、まことに微々たる存在ではないか。いつかこれを表現したい、そういうモチーフが私に棲みついた。軍隊から解放されて秋田に帰った私は、詩人北本哲三と再会して、詩誌をつくる相談をしたが、それがなかなか進まず、やっと昭
和二十五年(一九五〇年)になって『第二次・処女地帯』と発行となる。この創刊号には私は「山上部落」を載せた。実は、この詩ができあがったので、処女地帯創刊の踏ん切りがついたとも言える。一九四二年、山頂での着想から戦後の五年、ずいぶん長い時間がかかっている。その間、イメージの合成や凝縮があってようやくこの詩となった。幸い、『日本無名詩集・祖国の砂』(一九五二年)、『日本反戦詩集』(一九六九年)などに拾われて、いつしか私の代表作となった。短く手ごろなので、私自身いままでもこれを持ちだしたりしている。
 ずいぶん長ったらしい前文となった。あれから五十年、その時間を消化するために、こんな語りが必要であった。こんな古い詩。だが私にとって、そして、詩誌『処女地帯』にとっても、書き残しておかねばならぬ「私の詩」である。
 
 3     「勲章」 H19年7月12日(木) 
 この詩は、詩誌「処女地帯」55号(一九六七年三月)に載せた。同年一月の作品であるが、たしかその前年一九六六年かに、戦没者叙勲が発表された。戦争終って二十年たってのことである。「兵」の死は、おおむね「勲八等瑞宝章」というのである。叙位叙勲のことは知らぬ。戦死した一人の兵に対して、どんないきさつでそう決まるのかそれも知らぬ。その発表新聞紙上で「勲八等瑞宝章」という勲章の写真版が載って、それが「八角の白銀」であることを知った。そこで、私の戦争時の記憶がよみがえった。中国奥地での、小さい作戦時であった。一人の兵が戦死した。その時の状況は第二連のごとくであった。同じ中隊の、私と同じ補充兵召集の二等兵であった。火葬には仲間の兵隊が「衛兵」に就く。夜の闇のなかの「燃え続けた臓器の白い炎」であった。それが「勲八等瑞宝章 八角の白銀」と重なった。若い農民兵の死、この国を護る兵士として召集され、天皇の軍隊の一員として、とおく中国の地で燃え尽きた。一人の男の、いのち終末の光炎、それに重なるこの勲章というもの。なんということか、もろもろの、込みあげてくる私の思いがあった。それがこの詩を書く衝動となった。
 詩の構成として、叙勲の機に弔問に訪れるという設定とした。私の想定のなかでの「高橋三吉・二十四歳 農、一子あり 第二乙種 補充兵」 この一人の兵士像は、私のなかにたしかに存在するのである。家を継ぐため早く結婚した。その妻子、家族に見送られてこの家を出、そして「英霊」となって帰り着き、いま仏間の欄間の写真として残る。あの紋章に覆われた靖国神社に収容されそこに閉じ込められるな。地の霊・農の霊となって、この生れた土地に帰ってこい。私はそう願った。
 この詩は、実体験と想定とをまぜあわせて構成したが、私はもともと詩を書くのに、技法の計算や作為はしない。私はこの詩において涌いてくる思いを粘土として造形する思いで書いた。この詩は、詩集「斜坑」(一九六八年・たいまつ社)に載せた。
 
 4     「おみなえし」 H19年7月12日(木) 
 昭和十二年、大野台に日栄・松栄・梅栄・桃栄・美栄の五集団入植が始まる。県営集団農耕地開発事業による開拓集落である。大野台地は火山灰地質の痩せ地。時は、もう戦争の時代、昭和大恐慌につづく農村経済の疲弊、さらに冷害凶作と、農村は困窮の底にあった。
 その開拓地の一つの美栄(みさか)部落と私の出合いは昭和二十五年の秋のことであった。当時私は、農業協同組合発足したばかりの北秋田郡内の農協を回って県連合会への協力を懇請する役目で、村々をくまなく歩きに歩いていた。下大野村の畠山義郎さんを訪ねたのはそんな一日、二十三年設立の下大野農業協同組合の初代組合長であった。畠山夫妻は私のため大野台のとあるリンゴ園での、樹下の語らいの場を設けてくれた。そこで私は、詩集『晩秋初冬』(昭和二十四年、詩と詩人社刊)の、この闊達気鋭の詩人から存分に、そのエスプリを吸いとることができたようだ。そして、戦中、戦後を耐えに耐えてきた美栄部落がそこにあった。それぞれにいけがき、赤い小さい実、痩せた稲田、杉の列、おみなえしの花、それらの印象が私に強く残った。いけがきの赤い実、それをサナシということを、後で畠山に問いあわせて知った。(サナシー=ズミの別名、バラ科の花木、リンゴの台木に使われると園芸本で知った)、ケーブル埋設作業は、阿仁川沿いの道路での所見、これでこの詩の具象たちがそろった。〔畠山義郎さん、私の畏敬する詩人。この翌年に下大野村長、つづいて合川町長を長く努めたことはよく知られているところ。彼はその著『孤立のこころ』(五十九年、秋田書房、上下二巻)で、この時のいきさつを書き記してくれた、(上巻「無は豊富」注解)。〕
 この詩の成立にはもう一つのモメントがある。それは私自身のこと。兵隊から帰って以来私はまだ混沌のなかにいた。生理の凹凸道をつまづいたり転ろんだりしていた。そんな情念からの抜け道を求めて、下大野村を目指して歩いたようだ。叙事、叙景だけの構成であるが、これは私の内なる生理あるいは情念の裏がえしの表現であると、私は今だに思う。いわばこれは私の内なる叙情詩といえるものだ。この詩には「体言止め」という技巧が使われているという評記を読んだが、私にはそんな覚えがない。なんのことはない。私の吐きだす生理の糸がそこで切れてしまう、息切れしてそこで止まってしまうていのものだ。
 この詩の初出は、『処女地帯』や『コスモス』でもない。秋山清が採ってくれて、総合誌『人間』(目黒書房発行月刊誌)昭和二十六年六月号「現代民衆詩選」(解説中野重治)に載った。
 ずいぶん古い詩の因縁話になった。詩というものは「生まれる時」があって、あの時にしかこの詩は書けなかったのだ。
 
 5     「旗」 H19年7月12日(木) 
 またまた戦争の詩となった。私の兵歴のことは前に書いたのでここでは省く。中国山西省南部の中隊駐屯地から、秋のなんとか作戦で黄河近くまで駆け歩いた体験が基になっている。この詩は、兵隊から帰って六年目の、昭和27年秋の『処女地帯』誌13号に載せた。ガリ版手づくりの小冊子だった。変な詩だ、糞をひる一行から始まりすべて戦場の描写だけで終るこの詩、いわば生理と体験だけの叙事の詩である。こんなもの、詩かと、詩人たちから一顧もされないかも知れぬこの詩だが、私にとってはこの詩、まぎれもなくおれの詩、おれだけの詩なのである。今だに耳底に残る小銃弾道音、迫撃砲弾の爆裂音とともにおれの生理に食いこんでいる詩なのである。
 さて、この詩に照明があたるのはずうっと後のこととなる。『押切順三全詩集』(昭和52年、たいまつ社)でこの詩に出会った鈴木清次さん(平鹿郡増田町住、元高校国語教師であったと聞く。県南コミュニティ・カレッジ講師、「名詩の鑑賞」「近・現代日本詩選」など編著がある)が、昭和64年、詩と随想誌『花野』三号(田口恭雄編集発行)に、この詩のことを書いてくれた。これでこの詩が掘り出された。そこで鈴木さんがこの「旗」という詩をどう読んで下さったか。「詩について(3)」と題したエッセイーの末尾の部分を、そっくり頂くことにしよう。
 「………何と言ってもこの詩に生命を与えたのは、
  ひらひら、彼とともに山をかける
  その白い旗。
の最後の二行である。これは同じ下痢便に苦しむ高橋がしまい忘れた越中ふんどしであるが、事実は深刻な戦場であるのに、読者がまず感ずるのは一種のカリカチュアである。そして一瞬とは言えカリカチュアと思わせただけ、却って残酷に、その白い布きれを生の惨敗、生の絶望の旗に変わるのである。一体、あの中国大陸で命を曝した徒労の青春の戦いとは何であったかー。この旗は永遠にそのことを暗喩して、またそれ故にこそこの詩「旗」は、現代詩としての相貌をくまどりもよく見せてくれたと私には思われる。」
 よくぞここまで、私はただただありがたく感服し脱帽した。旗、一字を題したこの詩を、こう読み取ってもらったことは私の幸いである。詩「旗」にとっても、人との出会いが幸いであった。ここで私は、小林多喜二の言葉を思いだす。「一度放たれた言葉というものが、何処かで、誰かの胸にこっそり食いこんでいることを信じている」(エッセイー・「さて、諸君!」より)。詩の言葉もそうでありたい、そして出会いも大切であるといま思う。
 
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Last updated: 2007/7/12