吉田朗さんの頁




1    旅行けば海の炎は(5)
 
 一、マタアフヒマデゲンキデ
 
「半舷上陸」なんて残酷な外出だった。たちまち時間がすぎるので、うかうかしてなんかいられなかったのだ。昼食後から夕方七時までなんた、落ちつけるものでない。入湯上陸(夕食後から翌朝七時まで)や半舷入湯(昼食後から翌朝七時まで)とちがい、なんのために外出するのかといわれそうだが、それでも艦をはなれて自由になれるのが若者にはうれしい。敬礼したりされたりで呉の町はどんな小路でもうかつには歩けなかった。足早に集会所に行き、足早に用を足し時間までに帰艦する。それはよく訓練されていたものだと自分でも思う。
 ごった返す集会所で一息いれ、それから殊勝にも写真屋ヘ行くことにしていた。集会所にも写真室はあったが、戦友に紹介されていた写真屋があった。写真を撮る程のツラでもないし、撮ってどうということはなかったのだが、みんなにすすめられて一枚だけは郷里へ送っておこうと思ったのである。
 戦争は元気な人間をも突然、死に追いやる。その死は時として一物も残さないのが特徴だった。私でさえ空爆で一切を失った経験がある。また空襲でなくても出撃するとき、思い出の品々を詰めて郷里へ送ってもらったつもりだが、その荷は未着だった。
 戦友の死も次から次と情報が入ってくる。いちばん仲のよかった山形の人間が最初の殉死だった。彼は「陸奥」の乗員として爆発事故に遭遇した不運な人間だった。近くは「大和」の乗員だった人間もいる。山本長官と会えるのがうれしい、といっていた彼は沖縄に向かう途中、東シナ海で轟沈し戦死した。明日も分からない同じ運命が私を待っているのだった。自分は大丈夫だとは思ってもその保障があるわけではない。本土決戦が近づき、豊後水道を死守し、果敢に敵艦を襲撃しなければならない艦の運命は、早晩尽きるに定まっている。その時は刻々近づいていると考えるべきだった。この世に生まれてきた証拠に一枚の写真を義姉に送っておこりと思った。
 郷里秋田には――弟たちがすでに予科練などに志願し不在だった――母の実家はもはや叔母が死んだという通知をもらっていたし、父の実家には伯父のほか私ども兄弟のめんどうをみた義姉がいるだけだった。「家」の崩壊も戦争によってもたらされていたのだ。私はこの義姉にだけは死ぬ前に写真を届けておこうと思っていたのである。義姉からの手紙は「呉局気付」で何度か届いていたのだ。
 古風な二階建ての写真屋の前に挺身隊とわかる女の子がひとり不安そうに立たずんでいた。当時、挺身隊の女学生は学業なかばで、かなりの数が海軍工厰に動員されていたのである。私は「よう」と声をかけた。兵隊が時おり出たり入ったりしていたので、そのいずれかの連れと思ったのである。
「あのう」と彼女はおじぎをした。
「どうかしたか」
 思わず敬礼を返し、この子の連れはどんな奴かな、というふうに奥をのぞいた。肩から下げている防空ズキンが耐乏の生活を語っていた。
「あのう、写真とってもらえるでしょうか」
 乾板やマグネシュウムなどの材料が配給制で写真屋が苦労していることは想像できたが、シャバ(民間)の人間 (イヤなことばがあった)の写真を制限しているとは聞いていない。
「とってもらえますよ。いっしょに行きましょう」
 自信ありげにいったが、できないときは自分が譲るつもりだったのである。写真屋に自分の帽子の裏を名刺代わりに示し、戦友の名をいった。バックのスクリーンは軍艦や飛行機のほか、ヤシの海岸や日本庭園の風景があった。私は「庭」にしてもらった。彼女も同じバックで撮った。
 終わるとふたりは外へ出た。なんとなくいっしょに歩いているのがおかしく、ふたりは顔を見合わせて笑った。意外に明るく理知の目が奥で光っている。私どもは呉の町をゆききし食堂へ入った。私は持参していた「虎屋」のようかんなどを彼女に渡し、お茶を出してもらった。それから日ざしの傾いた港へ向かう。
 島根・松江高女の生徒だという。港の一角の破船の傍らで海風に吹かれながら夏の陽のこぼれるのをさけた。同じ日本海側の生まれということが、親近感というか安心感があった。船が入ってくると話を休め、船が出ていくと波光に暮色の影が散った。
 彼女は倉田百三だったかの思想について、話したような気がする。私は吉川英治の「宮本武蔵」や武者小路の話をした。「友情」に出てくる鎌倉の海は自分のいた藤沢の海軍の学校に近かったのだ。そのトナリが逗子だった。ふたりは低い声で「真白き富士の嶺」などと歌った。現実からしばし離れて霧のなかを歩む気もちだった。霧の世界が長ければ長い程アブノーマルな現実に暗たんとしていく。
「ようし」。振り払うようにふたりは起ち上がる。歩きだす。六時には桟橋に行かねばならぬ。戦友のひとりが近づいて来る。通信員の彼を私は紹介した。彼は歩きながら私に耳打ちした。「あした一七三〇出撃だぜ」。
 出港するとあといつ帰投するのかわからない。桟橋に入った私はうしろをふり返る。百メートル程の距離に彼女は遠ざかっている。私は咄嗟に手旗信号を送ることにした。
「アス シュッコウデス マタアフヒマデ ゲンキデ」
 彼女に分かるように、ゆっくり、ゆっくり、ていねいに腕を大きく上下させた。突然、手旗信号を送っても分かる相手とは思わなかったのに、それはムダではなかった。彼女からは分かった証拠に「了解」の合図があったのである。
 
 帰艦のカッターに乗組んだとき、彼女の姿を暮れなずむ波止場で見たような気がするが、この行きずりの、はかない出会いはこれっきりで終わった。十日後「呉海軍工厰空襲」が彼女らを壊滅させ、その一週間後「呉空襲」が完全に私どもの「上陸」を拒絶したのである。そしてこの二つの呉空襲は日本海軍全滅の前ぶれとなったのであった。
 青春―。こんな甘美なことばが私の時代に通用したであろうか。戦中はおも苦しく、ただに死を待つ日々だったというしかない。にもかかわらず私は時おりその風景をなつかしむ。彼女との遠い風景もいまだ消えない。あまりにもはかなく悲劇的であるが。
 
 暗やみの甲板で
 わたしはぼんやりと
 遠ざかる航跡を見ていた
 さようなら
 さようなら
 もんぺ服に白い襟のブラウス
 そこからふくいくと伸びた
 小麦いろの首
 郷里が日本海側というだけで
 親近感をもったふたり
 孤独をいやしたふたり
 さようなら
 敗色の濃くなった故国よ
 さようなら
 また会う日まで
 呉の町よ「戦場にならないで」
 挺身隊の彼女を「殺さないで」
 夜の海にひたすら願った遠い日よ
 
ニ、最後の連合艦隊はその時
 
 感傷的な私の詩に比べ、作家宮内寒弥の海軍をえがく眼はつめたく研ぎすまされている。また吉村昭の「帰艦セズ」のように、帰艦に遅れた兵士への追求が、江戸時代から今日ヘ続く目明しや警察権力の陰険さを思わせるリアルな語りで、海軍の醜悪部をとらえている。
 宮内寒弥は呉海軍の暗号員だった。もしかしたら呉の町であるいは集会所で会っているかもしれないのだ。その「艦隊葬送曲」ゃ「遺影」や「軍艦行進曲」は海軍生活に対し烈しい怨念をこめ、徹底した告発をおこなっている。
 「戦艦も巡洋艦も駆逐艦もかなしみをのせて海に浮かんでいるのだった」と書き「勇壮と思った軍艦行進曲の旋律の中にすすり泣きがある」(「軍艦行進曲」)などと吐き捨てるようににがにがしい。
「親分や子分がいて、縄張りがあって鉄の規律が待っていた。一度入ったら最後、足を洗うことの出来ぬ世界だった。そして昔の男たちのように彼らも仁義を切って歩くのであった。」(「艦隊葬送曲」)
「一度入ったら」は民主主義と自由を否定した軍隊では海軍も陸軍も同じこと。イヤだからといって抜けだせないのはヤクザの世界とかわらない。「仁義を切る」というのは新乗艦者の申告とか敬礼のことをいうのである。それは「お控えなすって」にあたると皮肉っているのだ。
 作家五味川純平はもっと論理的にみている。例えば「軍事のプロでありながら、プロらしい合理主義をカンタンに無視するのが、日本の軍人の大多数に共通した欠陥であった」(「御前会議」)と事実に即した断定をくだす。
 感傷的な私の詩の主人公はどうなったのであろうか。工廠空襲以後はまったくのパニック状態で、もはや彼女の消息を確かめる手段などはなかった。さらに一週間後の呉空襲は私どもを完全に遮断してしまった。もはやわれわれは帰る基地を失ったのであったから。
 「呉空襲記」(中国新聞社一九七五年刊)を読んで、当時の悲惨さ、混とんのさまを思い起こすのみである。
 一九四五年六月二十二日、呉海軍工廠はB29二百九十機の空襲でほとんど壊滅した。その日午前九時二十分ごろ第一波六十機により空爆が始まった。計八百四十トンの爆弾が投下された。造兵器地区の爆撃で工場内の地下防空壕、横穴防空壕が直撃弾で埋没した。このとき工員、学徒、女子挺身隊員の計三百七十五人(軍人を除く)が殺されるという悲惨さだった。女子挺身隊員の生き残りは二人だけだったという。
 その呉工廠空爆から一週間後の七月一日、B29八十機による呉市街の大空襲があった。このとき呉市は八万発の焼夷弾が落とされた。市街は完全に焦土化し、死者千八百人、重傷者干四百人に達するいたましい犠牲者を出した。
 こうして軍港都市呉は激しい炎の中で瓦解した。私の六月の半舷上陸の出会いもここに閉塞したのである。
 呉市の壊滅と呉海軍工廠の崩壊で、もはや勝負があったも同然だった。だが、これでも足らなくて戦史が特筆する「呉沖海空戦」の末期的決戦が容赦なく近づくのであった。
 呉市民がなかば放心状態でいるとき、最後の連合艦隊は、瀬戸内でどうしていたのであったか。
 「連合艦隊」の主力は、実は三月十九日の空爆後、気息奄々の姿で、瀬戸内の島々の陰にかくれ、舫っていたのだ。瀬戸内の哨戒にあたる私の艦はしばしばこれら傷痕の艦隊に出喰わした。歴戦の勇姿にしてはそれは異様な光景であった。その主力艦はたとえば航空戦艦「日向」は飛行機格納庫がぺチャンコだったし、同じく「伊勢」は命中弾十発を浴び軍艦としての機能を喪失していた。空母「龍鳳」は命中弾五発を受け同じく機能喪失。重巡「利根」は砲塔付近に直撃を受けていた。同じ「大淀」も五発命中。「青葉」は沈没寸前でドック入りしたあと江田島へ疎開していたのである。
 これらのカムフラージュした「艤装」のすがたは、はたしてこれで戦えるのかという疑問をいだかせた。それはアメリカの第三艦隊のなぐりこみを待つ本土防衛艦隊としてはあまりにも素手。捨身・自殺的だった。
 一九四五年六月十三日、沖縄の海軍部隊を全滅させたハルゼー指揮の第三艦隊と三十八機動部隊の快速機動部隊ははるか、日本本土を目ざし行動を起こしていた。空母四群十五隻を中心に計百五隻という史上最強の航空艦隊だった。その積載航空機は八百七十機。近づくにつれ本土の艦載機空襲がはげしくなっていくのは「空襲史誌」の語る通りである。
 そのハルゼー艦隊の一群は七月二十四日早くも室戸岬一六○度百カイリに空母、戦艦など十数隻で姿を現わし、たちまち呉沖の連合艦隊をおそう。七月二十五日は潮岬一四五度六十カイリに一群、さらに六十カイリに一群。約三百カイリにわたり四群が陸続と近づく。
 そして八月四日には室戸岬沖、五日は潮岬沖、六日には犬吠崎沖へと列島を包囲するかのように北上し、七日には釜石沖に達している。
 土崎空襲を「日本降服前の合法爆撃」と主張する花岡泰順さんの、その労作「土崎空襲の記録」(一九八三年刊秋田文化出版社)によれば、戦略爆撃目標地点として一八〇カ所の小都市がおかれていたそうだから、もはや制海、制空権を握ったハルゼー下の艦載機は、B29の爆撃に呼応し、思うままの攻撃をしかも効率的に行なうととができた といえよう。
 花岡さんの同著によれば七月十四日早くも艦載機(グラマンF6)八機が船川港の商船を攻撃し青森へ飛び去っているし、十五日には横手や秋田に爆弾を投下。八月五日には艦載機がまたも横手上空に飛来、駅前に爆弾を投下、駅や下り列車を機銃掃射している。この空襲で駅員一人死亡、ポンプ店一家六人死亡、二人負傷、列車乗客一人死亡、他に負傷者を出した。すべてが、非戦闘員だったのである。
そのご十日にもグラマンが来襲しているが、ハルゼー艦隊は十一日牡鹿半島に引き返し、十五日、東京湾沖に至るのである。
 さて、七月二十四日の熾烈な呉沖海空戦直前の「連合艦隊」の位置を次に記して、最後の艦隊をイメージしておくこととする。
 
航空戦艦「日向」呉市情島沖
同「伊勢」広島県音戸町坪井一五○メートル沖
空母「天城」三ツ子沖
同 「葛城」同
練習艦「榛名」江田島小用
重巡「青葉」警固屋沖。「伊勢」から一、二キロのあた
り。海岸には三百戸の民家が密集していた。
 練習艦「出雲」小用沖
 重巡「利根」能美島沖
 軽巡「大淀」連合艦隊最後の旗艦として江田島湾の奥深
くの飛渡瀬沖。秋田県平和委員会理事長で軍事研究家
として知られる佐藤裕二秋大助教授が乗艦していた。
 標的艦「摂津」江田島湾
 空母「阿蘇」秋月沖
 空母「龍鳳」同
 軽巡「北上」倉橋島沖
 駆逐艦「波風」能美島沖
 同 「椿」呉沖
 同 「汐風」同
 同 「梨」柳井沖
 潜水艦「伊三六号」山口県平生
 同 「伊一五七号」同 光沖
 同 「呂五九号」伊予灘
 同 「呂六二号」同
 乏しい私の資料で調べた限りでは以上である。このとき各艦は本土防衛に備え、豊後水道防衛のため、副砲、高角砲、対空機銃の半数以上を取りはずし、これを四国沿岸に送っていた。残り装備で呉軍港防衛の防空砲台に変身、上甲板に築山するなどして時のくるのを待ったのである。雷撃うけて後部を吹きとばされていた駆逐艦「波風」(筆者乗艦)と「汐風」はこのときより「回天」搭載艦に改造され、本土決戦に備えていた。また「梨」はこのときまでに潜水艦「伊三六号」とともに「回天」発射訓練に入っていた。(人間魚雷「回天」についてはあとで書くつもり)
 七月二十四日早朝、味方機は室戸岬一六〇度百カイリに米空母、戦艦他十数隻の一群を発見した。そして空襲警報発令から五分後に敵編隊が殺到する。最初のいけにえは「伊勢」だった。攻撃は午前六時十六分にはじまった。
 「伊勢」は一波三十機、二波三十機の来襲で四発の直撃弾と至近弾多数を浴びたのであった。艦橋が吹っ飛び、流出した油に火がつく。「伊勢」は火の海の中でかく座しなければならなかった。炎える海は付近住民をふるいあがらせたのであった。(「秋田民主文学」16号、1990.4)
 
更新日時:
H20年4月4日(金)

2    旅行けば海の炎は(4)
 
(一)始皇帝の亡霊
 
 家の前のカエデが日に日に色をましていく。日当りの悪い小庭でも、季節がめぐるとエニシダや花ずおうが花をつけ虫を誘うのである。いまや外光は明るい感動に揺らめき、私ども庶民の方に向かって旗をふり始めたのであった。
 「軍拡好核内閣」と称された皇国史観首相の中曽根内閣が、ウソで得た三百議席。それにアグラをかいて消費税を通したはずの竹下総理も、ついに醜態をさらし退陣し去った。
 「春疾風朽ちゆくものの朽ちはてて」(上遠清)。秋田市の一主婦が献じた句がそれを示していた。リクルート疑惑、公約違反の消費税、ひとたび国民の信頼を失なった自民党内閣はなだれのように支持率が落ち、あらゆる葬送のことばを浴びて瓦解した。
 政治情勢は逆光からまぶしい春光に転換しようとしていた。汚れ腐ったものの運命は、ボロ雑巾と同じく捨てられる。そして怒りの疾風は列島を縦断し席捲した。 大陸では、退陣した竹下内閣をはじめ自民党政府が、少なくないわれわれの血税を届けているはずの中国指導部が、世界注視のもと、恥ずべき悲劇を自らが演じ、衝撃を与えた。天安門広場は時ならぬ軍隊の発砲で血塗られ、これを機に中国全土は民主運動にとって前世紀的冬の時代に後退した。
 天皇の軍隊と社会主義の軍隊について、私は前号に書いたばかりなので、中国の軍隊は人民解放軍であるかどうか正体を、見極めようと深夜放送に耳を傾けた。人民の軍隊は「蟹工船」の駆逐艦の兵士のように労働者や学生には銃を向けないはずだった。
 孫子の兵法の開巻まっ先に「用兵は道義がなければならぬ」とあり、その第一は「いわく道なり、正義人道に適い大義名分に即するもの」とあった。「彼を知り己を知れば百戦して危うべからず」は誰でも知る孫子のことばであるが、中国でもまたこの孫子は実用的な古典として珍重されているという。
 中国の指導部は何を血迷ったものか、この「正義人道」の常識を忘れ、民主を叫ぶ素手の学生、市民の中に戦車と装甲車で襲いかかった。この映像や放送で知ったひとのショックは、おそらくはしばらく静まらなかったであろう。
 人民を解放するはずの軍隊が人民に向かって発砲し殺人を行なうなどということは誰であろうと信じ難いことであった。「自由の女神」の像をひきたおす兵士の眼は憎悪にただれていたし、銃を乱射する姿は完全に仇敵に対するそれであった。銃声と煙りの下を泣き叫び死者や怪我人を運ぶ学生と勝ち誇った顔の「長征」の英雄のコントラストが何とも印象的だった。
 「県南民報」(横手市)七月五日号は「その暴虐性、封建性、人命軽視の思想は秦の始皇帝に必敵する」と書いた。郷土史家でもある同紙和泉竜一主幹によれば、始皇帝は「身は鴻毛より軽し」(四十数年前の戦争で国民をかりたてた、ことばでもある)という人民抑圧者で、最後の決戦では敵の捕虜四十万人を穴埋めにして見せしめとした。また改革と温情を歎願した学者を捕え、それを穴埋めにし、全国からそれらの学者の本を集めて焼き払ったのである。
 中国ではいま始皇帝を再評価しているということだが、ケ小平たちが民主運動を弾圧し、指導者を処刑し、密告を強要するといった恐怖政治を布く光景は、始皇帝の亡霊が乗り移ったとしか考えられない。
 かつてわれわれは日中国交回復、中国の国連加盟、日中友好の運動に取組んだ。中国の指導部はこれを見事に裏切ったものである。中国には社会主義はなく、人民解放軍はその名の通りの軍隊でないことが、この日、全世界でハッキリと確認されたのである。
 
(ニ)最たるものの「電探」
 
 「用兵は道義がなければならぬ」との孫子の兵法からいえば、戦争こそは正義人道に適うとは思われない。その最たるものは広島・長崎の原爆だった。
 第二次大戦では数多くの新兵器が出現したが、その最たるものは「電探」と「原爆」だったといわれる。
 電波探知機が原爆と並べられる兵器がどうか、敗戦の日までそれを操作し、艦内でブラウン管をにらみながらアンテナを廻していた私には、俄かに信じがたいことだった。戦後、電波兵器が各国の基地の最重要兵器として競うように巨大なオリがつくられ観測している現状は、いまも変わりないことを語っているものであろう。
 戦後間もなく福留繁という元連合艦隊の参謀長が「海軍の反省」(一九五一年、日版刊)という本を出したとき、無知な一電測員はそれを読んでくやしさに涙をポロポロ流したのであった。
 「電探も原爆も日本は理論的にあとをついていたと思うが、完全にアウト・レンジ(角力にならぬ)されていた」というあたりはまず納得いくとして「竹槍を何百万本揃えてみても戦争には何んの役にもたたなかったことは電探一つが実証して余りがあった」には唖然とせざるをえなかった。日本は大義においてまず負け、電探に負け、原爆に負けたのであったが、海軍の作戦首脳がそれくらいのことを知っていたなら、なぜ戦争を始めたかと頭に来たのであった。
 戦争の全期間を通じ、艦船、飛行機、潜水艦の別なく、また空中や地上、水中を問わず、また晴雨、昼夜の差別なく、あらゆる攻防用の重要兵器をなしたものは、「電探であった」ことは、四年数カ月の海軍の生活で偶然ながら私はその渦中で経験したので思い当たった。しかも交戦国アメリカに十年二十年の遅れを見せつけられた。
 開戦時、日本軍はレーダーをまったく装備していなかったのに米軍は実用化していた。ミッドウエー海戦の敗北はレーダーが原因の一つにされる。日本海軍はそのとき電探教育は通信学校の中で小さくやっているにすぎなかった。
 海軍は米軍暗号の解読に躍起だったが、その片鱗をも、つかまないで敗戦となった。海軍暗号は当時としては最も進歩したものといわれたが、米軍は日本暗号の解読機を持っていたのであった。海軍暗号が不覚をとったのは日本の一般科学水準のレベル全体が低かったことを語るものであった。
 科学水準の低さは航空力を貧弱にしていた。対空指揮装置においては米海軍に三十年も遅れをとっていたこともうなずけた。
 艦橋のすぐ下は暗号室、その横に通信室、そして通信室の下は電側室であった。われわれはたがいに出入して連絡をとり合わなければならなかった。暗号室は解読にほとんど徹夜だった。通信室は傍受に忙しく、受信した数字のままの暗号電はたちまち束となる程であった。
 電探は軍艦と陸地を識別するのに苦労しなければならなかった。飛行機と山を区別するのもむずかしかった。大編隊とB29の差別にも相当の経験と六感が必要であった。
 海中の機雷や潜水艦の識別はつらかった。音波探知機はときに性能がよいこともあったが、概して感度が悪かった。
 電探は円滑に操作するために送電信機を最良の状態におくのに多大の労力と時間が必要だった。いまにして思えば、これからの機器は「日本無線」や「東芝」「住友」「日立」などの製作した、欠陥―もしくは未完成兵器だったのである。しばしば故障するので艦は修理に帰港しなければならなかった。
 ある日、私は半舷上陸で呉の溶から集会町へ向かった。その一日はいま思いだしても甘美でしかし痛切である。(「秋田民主文学」15号、1989・10)
 
更新日時:
H20年2月29日(金)

3    旅行けば海の炎は(3)
 
八、「サーカスの唄」を愛す
 
 1 長崎市長の一石
 
入江のように静まる冬の雄物川河口だが時として屏風のように切りたった波が寄せてくる。しかし、一九八八年の師走は「十二月小春」の造語が生まれて来そうな好天が続き、面くらわせた。たゆたう河口の岸辺に群れかう渡り鳥。カモやウミスズメ、白鳥が日向ぼっこしている。
雪は全く消え、乾いた舗道からホコリが舞い上る。暖冬というより異常気象の気配が濃厚だった。しかし、天気は申し分なしだったが心は晴ればれする日とてなかった。心はみぞれまじり。風が頬をたたく陰うつさだった。
 原因は疑惑まみれの政府自民党が、消費税の成立をあせっていること、食事どきに限ってニュースはかならず天皇の「下血」をいいだし、不快指数が高まること、などである。
 おりしも被爆地ナガサキで「事件」が起こった。七日の市議会本会議で本島長崎市長が共産党議員の質問に答え「天皇の戦争責任」を肯定したのである。「天皇が重臣らの上奏に応じて、終戦をもっと早く決断していれば沖縄戦も広島、長崎の原爆投下もなかったのは、歴史の記述などから明らか」というものだった。
 これは「天皇責任論」への一石であったが、同時に言論の自由と民主主義について考えさせる積極発言となった。
 オランダ坂の長崎はたちまちザボンの篭がひっくりかえるどころではなくなった。自民党県連は大あわてで発言取消しを求めたり、県連顧問解任をわめいたりした。
 公明党は「(天皇の)病状を考えると、もう少し冷静な態度をとるべきだった」といい、病状の上にていねいに「ご」を付けた。「冷静」とはどういうことかよくわからないが、公明党のさい近のスキャンダラスな諸事件こそ「冷静」だとは思えなかった。民社党は自民党と同じく「発言撤回」に動いたし、共産党はもちろん支持し高く評価した。歴史認識の差はそのまま言動の差となってあらわれたといえよう。
 一方、右翼は、翌日から県下、九州各地、関西からまで動員をかけ集結した。市役所前で「本島出てこい」「腹を切れ」「国賊本島」などとバ声をあげ脅迫した。放置している警察にも腹が立ったが、この民主主義もへったくれもないありさまに本島市長支持が急速に高まっていったのは当然のことであった。
 本島市長への激励は手紙、ハガキ、電話、電報など二千通にのぼったという。(そのご、二千九百通のうち抗議は一割弱との発表があった)私までも市長の勇気をたたえ拙い詩を献じた。二千五百分の一の激励にすぎないが、励まされ、勇気づけられたのは私だったので、お礼のつもりで書いた即興の詩だった。
 この町の大地のぬくもりと
 雪に清められた文化を
 守らなければならないから。
 暖冬の河口に遊ぶ子らに
 ナガサキの苦渋や犠牲が
 あってほならないから。
(最終連)
 反対や批判が許されなかったから戦前の日本は暴走していった。反対政党や批判勢力をおさえつけ、差別しようとするいまの日本の風潮は民主主義を失なっているといわなければならない。何人にも反対意見に耳をかたむける心の広さがほしい。長崎市長の一石は長い「昭和果つる日」の貴重な警鐘だった。
 一九四四年四月、私の艦がサイパン沖に寄港したその夜、空襲があり凄じい戦闘となった。制空権が既に奪われていた。サイパン島は海陸の必死の防衛で、まずはしのいだようだるたが、やられるかもしれないとその時、思ったものだ。それから、三カ月後、サイパンは玉砕したのだった。
 この日から日本の敗北は避けられない状況になったと歴史は記している。このとき支那事変を始めた総理近衛と木戸内大臣、皇族の一部が戦争の収集策について話しあったという。また一九四五年二月、時の総理近衛文麿は敗戦は決定的だからと終戦を進言したとき天皇は「もう一度戦果をあげてから」とはねのけたこともよく知られる歴史的事実なのだ。長崎市長はこれらの事実にもとずいて発言したのである。
 国会攻防を前にして世論調査の結果が新聞にのった。
 (さきがけ88・12・7)税制改革への不満が増大し竹下内閣は五四・八パーセントから三五・九パーセントに支持率を急落。反対に不支持は三二・八パーセントから五四・六パーセントに上昇した。国民は猿回しのサルじゃあるまいし、アメとムチでだまされないことを表明したのである。(その後リクルート疑惑が広がるとともに世論調査はさらに下降し、三月のNHKの発表によると、内閣支持率は一六パーセント。朝日新聞のそれは一五パーセントに下がった。)
 敬愛する松田幸夫先生(秋田市・松田医院長〉に「昭和」の最後の日はいつになりますか、とうかがったことがある。十二月の初めだったと思うが先生は「ことしいっぱい」と予測をたててくれた。それより一週間遅れの一九八九年一月七日がその日となった。誤差は一週間だったわけである。この夜、私どもは児童館で新年宴会を予定どおりおこなった。談論風発、カラオケや迷演説も飛びだした。市会議員の荻原和子さんもいたが、迷演説をしたのは職人さんだった。会社員、銀行員もいた。いちばん政治発言をしたのは国家公務員だった。「昭和」から脱出する解放感があってか、「歌舞音曲」を自粛するといったムードではなかった。
 あれ程、国民の反対をくらい、延長に延長を重ね、それでも足らず、数にモノをいわせて強行採決した消費税だったが、その間、天皇は何事もなく「推移を見守り」越年、正月行事があらかた終わったところで臨終というわけである。これが「国民を常に考えていた」ラスト・エンペラーの死だった。この夜、長崎県の歌人は「被爆死の一人ひとりを書き列ね雨聞きており昭和果つる夜」とうたう。
 翌日曜日はすこし早目に起き「革新市政をめざす会」のチラシまきをした。町内には弔旗を立てている家が二軒程見えた。昨七日「崩御」の号外が出たのでどんな影響が起こるかと思ったが、この町内は戸数百七十、そのうち二軒は服喪となったのである。
 帰宅してからセガレの家に電話したところ小二の孫娘が出て「テンノーヘイカでマンガ見れないからつまんない」とぼやいている。天皇が何者かは知るまいが、天皇が子ども番組まで奪ったことを孫は長く記憶していることだろう。マスコミは連日「天皇漬け」だった。「天皇報道」に異常な熱意だった。ほとほとうんざりして私は親子劇場を観るため家を飛びだしたのだが、会場で一枚の紙片を渡されて帰って来た。「自粛のため上演中止」とあった。
 人間だから死はいつかやってくる。、死は悲しいことだ。だから生きている以上は、人生を意義あらしめたい。また生きてい人間を尊重しなければならない。なんびとであれ、人間が人間の尊厳をおかしてはならないものである。
 同じ町内にいる元国鉄機関士だったI氏が年末に忽然と逝き、その門口に敬礼しチラシを入れた。いつものように年賀状を印刷し、書いたか書かないかという師走に入院し、そのまま短い労働人生の歴史を閉じた。定年になってまだ浅く、人柄だったので老後を楽しんでほしかったひとである。かけがえのないひとを失なったおくさんや息子さん夫婦の悲しみは痛いくらいわかるのである。このI氏の死は心にひっかかった。私はおくさんと会っても慰めようがなくて困った。天皇の死については別の思いがあった。
 「白馬にまたがった大元帥陛下」には、われわれはかつて尊厳も人生も奪われていた。「大元帥」は「大御心」だったはずなのに、下々は虫ケラ同然だった。直接、手を下したり、声をかけたりするわけではないが、その下の下のまたずっと下の誰かから「おれの命令は朕の命令だ」といわれると地獄にでもおもむいたのである。
 「絶対勝てるか」と念を押して宣戦布告にふみきった天皇は、戦争したら敵も味方も死ぬことが念頭にあったと思う。「若いころヨーロッパを旅行し、第一次大戦直後の荒れ果てたところをみて戦争はいけないとおもった」と記者団の質問に答えているのだから。
 一九四一年十二月八日、太平洋戦争に突入したとき、戦争の犠牲は何十万と見たか、何百万に数えたか天皇に聞きたかった。死んでいく者の苦しみを彼は考えたものであろうか。天皇の名により二百四十万の将兵が死に、戦災で七十万の国民が死んだ。また戦場にされたアジアその他では一千万以上が殺されている。人類の歴史でこれ程の惨禍をもたらした君主はいなかったと歴史は告げる。
 「生きていることが罪悪とされて白色テロの暗い谷間の時代を生きた」(作家鈴木清さんのことば)ひとたちもいる。小林多喜二と同じように、何度も検挙され、一方は殺され、一方はからくも生きのび、いま「昭和が終わったというのにスカッとしないなァ」と新聞(「赤旗」)に一文を寄せていた。
 いまさら天皇の死で涙を流し、弔旗を掲げ、歌舞音曲をやめて、喪に服すなどということが庶民感情としてできるものであろうか。「朝見」であれ「元号」であれ「即位」であれ、支配者の汚れた政治をかくすための操作や道具にはのりたくないものである。あの戦争で、広島、長崎の人たちの残忍、悲惨な死は誰れによりもたらされたのであろうか。また日本の都市という都市を破滅へ導いたものは何であったのか。牧歌的な昭和懐古をやめ、一日も早く自己陶酔から醒めなければならないものなのではあるまいか。
 
 2 「駆逐艦はコワイ」
 
 三月十三日の集団申告が終わり、一息ついているところへ「文学通信」(民文秋田県連工藤一紘発行)の二十四号(一九八九年三月)が届いた。多喜二祭の詳報である。佐藤好徳さんと野上百合さんの丹精こめた名文である。ふたりとも多喜二祭はそれぞれ役目を持ち、忙しかったのに実によくまとめてあり、記録としても資料としても第一級の好文で二読三読した。
 ことしの多喜二祭は、記念講演が好評だった右遠俊郎さんが、翌朝「小説・朝日茂」で「多喜二・百合子賞」の受賞が発表されるという、うれしいタイミングだった。
 多喜二祭が終わってから有志で講師を囲んで反省会をおこなった。宴という程ではなかったが酒が出て、和泉竜一さんの漫談的自己紹介で爆笑しながら各自思いおもいにしゃべっているところへ「駆逐艦がコワイ」という声が突然、私の耳をつんざいた。たぶん、多喜二の作品から「蟹工船」に移ったものか、同意の声が続いた。ことばのはさむ余地はなく、身を縮ませて、私は耳を傾けたのであった。
 
誰れのリクエストか知らないが「サーカスの唄」がラジオから流れた大正琴の伴奏で大正ロマンをかきたてる哀愁のうたである。私はこの歌には特別の情感をもつ。この歌を聞いて西条八十には悪いがサーカスの少女をイメージするのでなく、それはいまも夢を見る駆逐艦乗員時代を連想するのである。
 
 朝は朝霧夕べは夜霧
 泣いちゃいけないクラリオネット
 流れ流れる浮雲の花
 あすも咲きましょあの町で
 
 駆逐艦「朝霧」も「夕霧」もともに私は、帽を振って見送り見送られた仲である。とくに「アサギリ」の水雷長とはことばを交わしたこともある。
 フブキ型には、万葉ばりの霧の名のついた駆逐艦が四隻あった。両艦のほかは「天霧」と「狭霧」がいた。いずれも昭和初期の建造で千六百トン級の一等駆逐艦。三八ノット。旧型であったがその姿は重厚で古武士的、雷撃型だった。
「アサギリ」は一九四二年八月ガダルカナルの戦闘で急降下爆撃機十数機の襲撃をうけて沈没した。「ユフギリ」はこのとき沈没しなかったが中破した。おりからスコールのなかに逃げこみ追撃をまぬがれたのである。しかし、翌四三年十一月大西[洋]洋で戦闘に破れ戦史から去っていった。両艦ともその最後の姿をトラック島の基地で私は見たのである。
 日本はワシントン軍縮条約の制約で駆逐艦の建造に重心をおき開戦時にはドイツを上回る保有数だった。
 多喜二虐殺直後、日本は国際連盟を脱退、海軍力増強に拍車がかかるのである。
 一九四一年から四五年までの三年八カ月のあいだに一等駆逐艦一六九隻中、生き残りはわずか三十数隻、二等駆逐艦は三九隻中、十隻のみという壊滅的な損害をうけた。音に聞こえた名鑑ことごとくを海底深く失なったことは当然とはいえ、いたわしくもあり、とくにその乗員や肉親におもいをはせるとあまりにも悲しい。いたましいこれらの遺骨はおそらく半数以上は生存を共にした艦にいまも抱かれて、はるかな故国を偲んでいるにちがいない。
 「サーカスの唄」の詞は「旅のつばくろ淋しかないか」に始まるのだが、私は替え唄をつくって歌ったものだ。
 朝は朝霧夕べは夕霧/泣いちゃいけない艦隊勤務/流れ流れる桜の花は/あすも咲きましょ散りましょ」。うたいながらいまも、私は沈痛になる。
 霧が霽れるかはれないかの重い幕の張られた海上に、長いからだを横たえる駆逐艦。次第に艦体をあらわにしながら、やがて「総員起し」の笛。眠りからさめて朝の課業。
 「軍艦旗掲揚」ではじまる男たちの一日。ひとたび出撃すると海の尖兵としてなりふりかまわず海を駆けぬける。あるときは空母や戦艦のあるいは輸送船の護送にあたる。自
己犠牲的に掃海や救助の任務にもつく。オトリになるときだってある。お呼びがくればいつでもどこへでも身をひるがえして急行する。それは菜っぱ服を着た労働者のように気軽るだった。消耗品だった。落ちこぼれの私などが乗組むには恰好のふねだったかもしれない。
 出撃のさ中にだって海軍名物のバッターやピンタがあった。それだけに「泣いちゃいけない艦隊勤務」だった。泣きごといわず、任務遂行に身を挺し、海のも屑と消えていく桜花たち。その兵士の心情におきかえると、愛唱するに足る歌となる。
 戦争の名残りは確実に消えていく。いま「昭和」も終わった。だが、戦後はあくまでも続く。私どもが生きている限り続く。生き残ったものはそれ程、破天荒な、大それた経験をし、その原風景をひきずり、いまを生きるのだから。
 「駆逐艦」という残照にこだわる私の心はしかし弱いからなのだ、と「蟹工船」を読むとき、それを感ずる。すでに小林多喜二は一九二九年に当時のべストセラー、プロレタリア文学の不滅の作品「蟹工船」で天皇の海軍を象徴的にえがいているのだ。それはリンゴをまっ二つに割ったときのように明快である。もともと社会主義の軍隊とちがい「人民の(ための)軍隊」にはなり得ないのだ。すぐれた多喜二の才能はそれを喝破し天皇の海軍をスッパ抜く。
 「蟹工船」のクライマックス。北洋に炎える工船労働者。差別と圧制ヘの怒り。ストライキとなり、団体交渉が始まる場面。監督は「そうか、後悔しないんだな」「色よい返事をしてやるから」とふてくされる。「芝浦」はそういう監督のピストルをたたき落とす。「吃り」はすかさず横なぐりに足をさらう。横倒しになる監督。テーブルが「四本足を空にして」ひっくり返る。「色よい返事?この野郎、ふざけるな!命かけての問題なんだ」と「芝浦」。
 駆逐艦が近づく。「しまった」と学生がはね上る。「帝国軍艦万歳」と叫ぶ労働者。(正確には駆逐艦は「軍艦」と呼ばなかった)
 駆逐艦から三隻のカッターが向かってくる。付け剣をした兵士がタラップ(本文は「ラップ」となっている)を上って来て「海賊船にでも踊りこむようにして」ストライキの漁夫や水、火夫を取囲む。「しまった、畜生」「やりゃがったな」と「芝浦」たち。対照的に「ざま見やがれ」という監督。ストライキに入ってからの監督の不思議な落ちつきが、このときわかる手法だ――。
 
 広島の「平和記念資料館」へいったひとなら分るが、玄関正面に高々と大パネルが展示されている。私はこの大パネルを見たとき、からだが凍ってしまった。この大パネルはB29撮影の原爆投下直後の引伸し写真で、広島上空に広がる大キノコ雲と黒煙に見えかくれする市街、そして瀬戸内の島々が写っている。その能美島の西岸あたりに小さな艦影を発見したのだ。見おぼえのあるマスト。電波探知機が取付けられた前部マストと特徴のある艦橋。それはまちがいなく私の乗艦だった駆逐艦なのだ。かつてエノラ・ゲイを迎え撃ち、いつかきっとカタキを打つと誓った青春の残像が、はるか六千メートルもの下の海でキノコ雲を見上げているのだった。私は「あっ」と声をのみ、その場で硬直してしまう。やがて熱い涙で目がふくらんでいく。みすぼらしい姿で、いなかの親父と出会っなように、立ちつくしてしまったのであった。(「秋田民主文学」14号、1989・6)
 
更新日時:
H20年4月4日(金)

4    旅行けば海の炎は(2)
 
  七、「昭和」のフィナーレに
 
 ―池子では
 実をいっぱいにつけたシイの木が枝をひろげている。しゃれた門柱が立ち、鉄の扉の内側は石段だ。ダイダイの木や蘇鉄やしゅろなどの暖帯植物をくぐって何段も昇ると洋館風の家がある。そんな家が見上げる高さまでに建ちならぶ。池子の森はとみると緑は日に輝き、風にそよいでいた。
 ポカポカ陽気に誘われて神武寺駅に下りたつ。池子の町の方へ歩を進めると、そこもしょうしゃな小じんまりした家や古びた商家風の家だった。
 一九八八年五月。連休が反って逗子の町をひととき静寂なものにしていた。しかし逗子市の池子返還運動は激烈な攻防のさ中にあった。去年の十月、「池子に米軍住宅は建てさせない」という現職富野市長の方が勝ったのだが、一年後の十月には、また市長選をやらねばならない。富野陣営にしてみれば五度も「米軍住宅ノー」の審判がくだっているのだ。ここらでアメリカも日本政府も断念するのがあたりまえなのだが、一向に凌巡しない。容認派は戦術を変え、池子問題を争点からそらそうとし、融和政策を打ち出しはじめた。あたらしい攻勢である。いまや富野市長を押す「緑派」は婦人を中心にした市民グループと政党では共産党だけなのだ。自民、民社が容認派、なぜか社会、公明が自主投票という。結果として緑派に立ちふきがる態度だ。
 
 逗子市新宿に住む若い主婦たちでユニークな新聞「でも・くらし」が発行されている。(逗子市新宿三―五―一熊谷方)創刊は一九八七年十二月。地区にはじめてのミニコミ紙だが、以後、月刊を守っている。日常の暮らしを中心に、市民の目にうつった町の問題点を主婦の立場から取り上げ、疑問点を指摘し、いけないものはいけないといった説得のある編集で共感を呼ぶ。B5判・八ページ建て。二千部を無料で町内に配付する。資金は八人の編集スタッフの持ちこみ、カンパ。それから逗子海岸を清掃してアルミ缶を集める。なんともこのアマチュアリズムがアマチュア政治家の富野市長を支えている感じだ。いってみれば井戸端会議満載の情報紙なのだ。
 この「町の新聞」の中心になっている熊谷えり子さんは三十七歳。「新聞を作ろうっていいだしたけど、私って何も作り方知らなかった。でもみんなでやればできるものなのねえ。」
 一九八六年十二月二十八日号の朝日新聞「声」欄では私はこの熊谷えり子さんの投書を発見してファイルした。その一部は次の通りである。
 「池子の森守る約束を買いて」(逗子市熊谷えり子・主婦三十五歳)
 池子米軍住宅問題について長洲神奈川県知事はこのほど「白紙撤回は困難」という発言をした。これまで長洲さんは、地元住民の意志を尊重すると述べて来たし、富野市長誕生の時には「今後は逗子市と足並みをそろえ、国に対し建設反対を働きかけていく」と明言したではないか。来年の知事選が無風選挙となるのが確定的となるやいなやの、この発言である。
 米軍住宅をなぜ池子に建てねばならないのかという、最も基本的で素朴な問いにまともに答えないまま、池子に固執する国側を動かすのは、たしかにとても難しいだろう。
 しかし、その困難にもねばり強く三度のリコール、二度の選挙と連子市民が立ち向かっていったのは、何ものにも代え難い池子の森を守るため、ただそれだけだった。首都圏唯一の自然の聖域は国民の宝であり、何も逗子市だけのものではない。(後略)
 明快な勇気ある発言というべきである。緑派には熊谷さんたちのような個性的、自由人的発想の人たちが無数についているのだ。池子弾薬庫の森は上野公園の五倍もある。その六分の一を米軍住宅にあてるというが、実さいは全体の四分の一が使われてしまうのである。
 「でも・くらし」の中で相場清子さんが書き「逗子の市民の間に芽生えたばかりの民主主義。この双葉を立枯れさせないためには、ひとりひとりが日々意識を尖鋭にし、勇気をもって行動しなければ」と訴えている。
 逗子の砂浜は美しい。戦前は村だった。静かな緑の町だ。ある自然公園指導員が「池子の森がなぜ大切なのか。あの森の一本一本から私たちはひと口の息をもらい生かしてもらっています。森は地球の浄化器である。池子の森をこわせば相模湾の水がよごれます。自分の子どものように池子の木々に一本一本、名前をつけて大切にしようではありませんか」と書く。
 説得力のある美しい文は「ふるさとの森とまちの政治」のためにみんなで戦っていることを告げている。
 熊谷さんからの手紙。「小さな池子の森を通してひろい世界が見えて来ました。事実無根のスキャンダルによってけがされ、市民を脅すために池子の木を伐るなど圧力ははげしいものがあります。でも、私たちはこの怒りを日本の民主主義のために、また私たちが人間らしく生きる当然の権利のために、みんな顔色を変えて飛びまわっているのです」。
 「昭和」のフィナーレがはじまった。「昭和」は庶民階級にとって、つらく切なかった。その「昭和」のさいごにせめて人間らしく生きていける希望をいだきたい。それが有終の美というものである。「革新」や「野党」といわれた勢力が日毎に姿勢を変え、反革新の側に組していくのは残念なことだ。いかに「反戦平和」を声高に唱えようとも逗子のたたかいのような正か反か、表か裏か、敵か味方かという決定的なときに明々白々となる。
 池子の土手っ腹に、樹々に、いまや鋼のツメが立てられようとしているのだった。森の周囲は鉄条網と厚いコンクリート塀が囲んでいて余人を近ずけない。いかめしいゲートがある。
 「在日米軍施設につき立入りを禁ず。許可なき立入りは日本国法令により罰せられる」とあるのである。米軍と日本のガードマンがゲートにはだかっていた。
 「池子の現況と将来景観」なるものを見つけた。「米海軍横須賀基地司令官」と「横浜防衛施設局長」の名があった。葉山桜山団地の北側からの景観としてあるが、いかにも広い池子の森にとって「米軍住宅はほんの一部」といわんばかりの絵である。だがよく見ると森に巨大なビルがいくつも立ち並び、アンテナの鉄塔やテニスコートや運動場らしき地面が十二分にとられ、その面積は一つの団地、一つの町どころでないのだ。
 すでに逗子市の反対を押しきり、米軍住宅建設事業の本格着工の前提というべき池子川の付け替えと防災調整池などの工事入札が強行されていた。政府は池子の森になにがなんでもブルドーザを入れたいのだ。
 鎌倉街道近くに小公園があった。日は昇りべん当をひらくには暑すぎたが、木陰のべンチをえらび昼飯をほほばった。持参の茶がうまかった。時おり、お年よりや婦人が通る、
 「ああ、このひとたちもアメリカと日本政府をむこうにまわし六年間もたたかって負けないでいるひとか」とおもう。
 かっては海軍に自由にされたこの森を、こんどはアメリカの自由にされるなんて。「逗子市民よがんばって」。私はべん当のトリの足をかじって目をつり上げる。子連れの若いお母さんが「キャッ」といわんばかりの視線を向けてすぎ去った。
 「ヒトラーは人間ならずといいし祖母の母国ドイツに遺髪持ち発つ」(逗子市・柵木理恵子)。私は逗子市のエレガントな?婦人が新聞の歌壇にのせた歌を思いだし、小鳥のさえずる森を見上げたのである。
 
 ―横須賀では
 横須賀線は私にとってセンチメンタル鉄道だ。横須賀線に乗ると少年のように胸がときめく。呉線は遠いからできないが、横須賀線は私の青春へたどる道だった。鎌倉をすぎ逗子にさしかかるとドキドキしながらあたりの風景に目を見はる。田浦や横須賀が近ずくにつれ私は身を乗りだし港の波面に目をやりながら、心は海に漕ぎ出ている。
 詩人川崎洋は「旅から帰って来て横須賀の空気を吸うとほっとする。ふっと口をついて出る独り言も横須賀弁だったりする」と書いている。
 この日も私は朝早く横須賀線に飛びのった。和紙問屋での仕事はうまくいき前日のうちにすんだ。横須賀行きの目的は「ただの遊び」だった。新しくできた三笠公園と第一回「三笠公園まつり」にあった。
 それでも私は横浜で京急線に乗りかえ池子に寄り道した。池子の森をしっかり見ておきたかったことと、池子の森を守る逗子のたたかいをかいまみたい誘惑にかられたのである。
 だから横須賀についたときは、もはや日が落ちて、港を散歩するひとの黒いシルエットに波の光りがはね返っている。海に投影する灯りは炎えていた。宿の一国屋につくとすぐさま私は会場にむかった。
 
 若き日はや夢とすぎ
 わが友みな世を去りて
 あの世に楽しく眠る
 かすかにわれを呼ぶ
 オールド・ブラック・ジョー
 われも行かむはや老いたれば
 かすかにわれを呼ぶ
 オールド・ブラック・ジョー
 
 暗い道を踏みながらフォスターの歌を口ずさむ。一国屋のある汐入町から国道十六号線添いにあるき、臨海公園に至り、本町、稲岡町を行く。「かすかにわれを呼ぶ」という実感があった。私は語りあえる良き戦友を次々に失って来た。最近もそのひとりをあの世へ送った。「楽しく眠っている」かどうかわからないが「若き日」がはやすぎ去ったという寂蓼が胸にあった。
 「若き日」を思って横須賀ヘ来て変ぼうする横須賀には落胆することが多い。ドブ板通りのブラブラ歩きもアメリカ色が濃くて情けない気もちになる。ベース〈アメリカ海軍基地)の前を通るときは「許せない」思いにかられる。臨海公園にいまだ逸見門があり、海上勤務時代に上陸するときこの門を通り、安浦や汐入へくりだしたことを思いださせる。しかし、ここから見える横須賀港には潜水艦や駆逐艦や巡洋艦がいまだに浮かんでいる。そればかりか、戦前の殺ばつとした活気とまではいかないにしても、くるたびにその数はふえているのには憂愁をおぼえた。
 その横須賀に無いものが有ったのにはいよいよ唖然とさせられた。それはあってはならないものだった。横須賀の新名所たる三笠公園の三笠艦前広場に東郷元師の銅像が立っていたのだ。
 撫然とした思いで宿に帰った私は、すぐさま地元紙の神奈川新聞に投書を書いた。ハガキにこまかい字で書いた。それは五月十二日号の同紙「自由の声」に取りあげられたのである。
 それは「横須賀に平和学べる施設を」の見出しである。私は猿島の現状を憂い、その扱い方についても別に一枚書いたが、それは取りあげられなかったようだ。猿島はいまは無人島であるが、明治のむかしから要塞であったことは知られる。いまは自然豊かな行楽地だが、荒れるがまま。自然は放置しては守れないという主張だった。
 
 横須賀に平和学べる施設を。久しぶりに横須賀を訪れた。たまたま見違える程に美しくなった三笠公園の「第一回三笠公園まつり」と「ドブイタ・バザール」の最終日に遭遇し、足を棒にして歩いた。
 「まつり」の方は横山市長のあいさつによると四日間で六万人を動員したという。花あり水あり演奏あり、おまけに星空ありの初夏をむかえるにふさわしい一大イベントであった。夜風にあたりながらジャズ演奏に合わせるレーザー光線や噴水ショーに時のたつのを忘れた。しかし帰途いささか不定愁訴をぬぐいきれなかった。
 戦後はダンスホールやレストランにまで「落ちた」三笠艦が、訪れるたびに補強され、修復され、いまや威風堂々の姿に生まれ変り、観光横須賀の目玉の一つとなった。いまさら戦前の富国強兵の思想を吹きこむためなどとは誰れも信じまい。しかし、艦の前庭に「東郷元帥」の銅像までがお出ましになっていたのには唖然とさせられた。
 平和を願う国民の一人として、また旧海軍の人間としてこの銅像は不安を抱かせた。それでなくとも横須賀市民は核を搭載しているのではないかと疑われる米潜水艦、航空母艦の入港にいらだちを禁じえない状況だ。横須賀は広島に学んで「戦争歴史資料館」のようなものをつくって平和への思いを高めるべきではなかろうか。市長の一考を願うものである。
 
 以上が「自由の声」にのった全文である。戦後数年して三笠艦の現状を憂う有志からカパの要請があった。戦友に義理だてして貧者の一灯を投じた私であるが、誰れであれ、このカンパは平和時代をむかえ、不戦を誓っての三笠艦へ托した夢だったはずである。
 「東郷元帥」はたしかに日露戦争の末尾を飾る日本海海戦の大勝利の提督ではある。だが軍国主義時代を清算した民主主義目本では三笠艦前で銅像にまでなって郷愁をかこつことはないのだ。世界に例のない海軍のバッター(制裁)は東郷の発明だと誰かが書いてあったが、あの精神棒を持つとたしかに昂奮し人間が変る。やられる側の責苦は全くゴー問以外の何物でもなかったはずなのに。
 十二日の神奈川新聞の私の投書と関係はなかったが、偶然、五月十七日の朝日新聞が東郷元帥の写真を一面に掲げ、小学校社会科で「歴史上の人物」として東郷を教えるという文部省の計画をスッパ抜いた。翌日から「赤旗」をはじめ各紙は東郷平八郎なる「歴史上の人物」をいっせいに書きはじめた。
 五月二十三目、神奈川新聞は一面コラム「照明灯」に東郷元帥批判を掲げた。要訳すると次の通りである。
 旧海軍にいた秋田の人が久しぶりに横須賀を訪れた感想を、先ごろ本紙の「自由の声」に寄せていた。「戦後はダンスホールやレストランにまで落ちた℃O笠艦が訪れるたびに補強され、修復され、いまや威風堂々の姿に生まれ変り……艦の前庭に東郷元師の銅像までお出ましになっているのにはいささかびっくりした」とある。東郷元帥といえば、小学校の学習指導要領の見直しを進める文部省が、六年生の日本史学習に「必ず教える歴史上の人物」十人の中に挙げている(「朝日」)という。まだ決定ではないが復活する東郷さん!である。日本海海戦は五月二十七日(旧海軍記念日)。照明灯子は去年の今ごろ「老艦の静寂な余生にも趣があるのでは」と書いたが、核搭載艦と疑われる米軍艦の出入港がしきりで、これに不安を感ずる秋田の投稿者は「横須賀は広島に学んで戦争史資料館」のようなものをつくって平和への思いを高めるべきではなかろうか」と結んでいる。歴史の事実を消したり、ゆがめたりすることの誤りは指摘するまでもない。奥野発言ではないが、その事実をどう評価して誤まりなく後世に生かしてゆくかである。冷静、客観的な歴史観が大切だ。
 これを読んで私はマスコミのなかにも、まだ平和の問題を誠実に考える記者のいることに満足した。新聞が世論をとりあげ、世論が新聞を味方にしながら、時代を平和の方向に軌道修正させていくという一つの方法論を学んだ気もちだった。東郷問題は一カ月以上も各紙喧々ごうごう、余韻は数カ月続きなお不連続線が時たま雷鳴をひびかせた。
 
 川崎洋「サイパンと呼ばれた男」は戦前戦後の横須賀を、思いこみたっぷりにえがいている。米軍進駐の描写が迫力あった。それによると八月三十日、軍港沖の艦艇群から星条旗を揚げて上陸用舟艇が上陸したのであった。完全武装した兵をのせていっせいに発進し各桟橋へ向かったきた。その時、横須賀の日本海軍兵力は十万六千であったというから、米軍の方もかなり緊張していたのであろうか。
 その反動か。占領第一日日から「不祥事」が次々と起った。外務省から派遣されていたある連絡係の手記が引用されてあるが、それは強姦、盗難、女子拉致、暴行、強奪、漁船拉致、拿捕、警察官に対する不法行為、家宅侵入、破壊などなど、それはもう、たいへんなものだったようだ。勝者のおごり敗者の屈辱、横須賀市民はそれに抗し耐えたのである。
 同著に観念寺の銘酒屋のことを書いているのでなつかしく読んだ。「銘酒屋」というのは売春宿のことなのだ。表看板は酒屋だが、観念寺周辺には三百軒程あり、一軒に四、五人の女がいて男の相手をしていたのである。男は海軍か工厰の工員なのだ。「銘酒屋の間口はどこも狭く、一間半が限度だったのではなかろうか。軒先にかけた縄ノレンの向こう側に一間の引き戸が大きく口を開いている」とあり、小さな部屋に引きこんで相手をするかわいそうな女たちをほうふつとさせる。横須賀にはほかに柏木田に遊廓があった。「娼妓は秋田、青・森、山形……長野などの農家の娘が多かった」と書いていた。これらの女は五年で二百円の年期奉公だったという。詩人川崎洋は横須賀の「古老が語るふるさとの歴史」から拾ったそうだが、戦前、娘売りだとか女工哀史だとかあの悲惨な話となるとなぜか一番に秋田があげられる。いまだに全国唯一の人口減少県であり、貧しさナンバー・ワンの地位に甘んじているのにはどんな理由があるのだろう。秋田の人間はつきあってみると人それぞれキラッと光るものを持つているのに、それを生かさないでいるのであろうか。貧しさでも、無知でもないという気がするのだが。(「秋田民主文学」13号、1989・1)
 
更新日時:
H20年4月4日(金)

5    旅行けば海の炎は(1)
 
  六、憲兵がやって来た
 
 映画「赤い風車」(ジョン・ヒューストン監督)でロートレックが「セルビア王が何んだ、彼だってむかしは羊飼いにすぎなかった」という場面があった。胸がスカッとしたが、そういう考え方のできる西洋の人間に感心した。ヨーロッパは日本のように古代の歴史があいまいでないから、民主主義という犯しがたい規範が、王を超えて社会にも人間にもしみとおっている。それを思い出させたのが「全国世論調査」なるものだった。
 一九八七年十二月十九日朝、あわただしい師走の駅で買った「河北」の一面(さきがけも同じ)にそれがのっていた。記事は予期していたものの私を失望させた。
 記事によれば五人のうち四人までが、いまだに「元号」があった方がよいと答えているのだ。「天皇制」については八三パーセントがいまのままでよいと是認している。「国際感覚」とか「全地球的」とかということばの好きな日本人にしては、なかなか抜けきれないしがらみのようである。いまもって「昭和」などという世界に通用しない元号でなければならないとは、なんという信念の固さであろう。それとも無知の故であろうか。「天皇象徴」が定着してか現在の天皇の位置づけには「何んとも感じない」が四六パーセント、「関心がない」を加えると計六五パーセントである。天皇がまたも陰に陽に表の舞台に立っている時(Xデーも遠くない)、無関心、無批判でいるということは、日本人の精神の未成熟を語るものでないか。
 天皇の「戦争責任」については「ある」が二五パーセント「ない」が二四パーセント。「どちらともいえない」が四二パーセントもある。大部分の人は世論調査なんて来られた経験はないにちがいない。来られても自分の意見を明快に述べるというのは苦手なのだ。だから「なんともいえない」という。実はそれは意味が深いのであるが、体制側はそれを逆手にとり最大限に悪用する。「なんともいえない」はいかに無責任であり、エゴイズムであるかを知るべきである。
 それにしても「天皇」不用の思想は、一途に「天皇」のため「国家のため」ひたすら「滅私奉公」した私のような、無知な戦争体験者の自戒にすぎないのであろうか。
 「身じろがず『日の丸』見あぐる校庭の瞳五十余兵となるなかれ」(青田綾子)。教師たちの闘いと努力にもかかわらず「君が代」と「日の丸」が教育現場や集会に泥靴であがりこんでいる。戦争は国民多数が反対し、意思をハッキリさせて団結していたら、いかに軍国主義者や憲兵、警察が抑圧したとしても遂行は不可能であった。「戦争に反対したらアカと呼ばれる」「不忠、卑怯者とののしられる」。行動する勇気がないばかりにそれをさけた結果が、あの十五年戦争であり、あの敗戦だった。
 
   「温厚誠実」の多喜ニ
 
 「勇気がない」ばかりに私は海の藻屑となる道を選んだ人間である。多喜二祭が終わってからの反省会では、それをいおうとしたのに脱線した。凡人の悲しさ、ひとに語るときなぜホラになってしまうのだろう。私は話してから赤面した。
 一九八八年二月二十一日、講演や文学ゼミで熱弁をふるった文芸評論家小林茂夫さんをねぎらって乾杯した。それから各自感想を述べたとき、つい気を許してしまったものである。小林さんは祖母さんが秋田の出身という。そのせいか秋田には特別親しみを持っているように感じられた。文学ゼミでは書き手のひとりひとりにつき、いたわったり励ましたりしてくれた。そのことばのはしはしにやさしさがあふれていた。それは北国の風土に耐える人間への愛情や同情を超えるものがあった。
 感動的な夜だった。私は調子に乗った。戦時中、新聞にプロレタリア小説まがいの文を書いて原稿料をもらったこと、それが近所の噂さにのぼり、憲兵が来たこと、そ[れに]井伏鱒二と手紙のやりとりがあり、鱒二までが戦場に連れ去られることに絶望したことなどを並べたてた。
 「監房細胞」(プロレタリア文学全集)が出版になったばかりの作家鈴木清さんや「土崎空襲の記録」の著者花岡泰順さんも同席していた。秋田民主文学の支部長や多喜二祭の実行委員長のほか多数が座をしめていた。
 詩人あさあゆむさんや同行の元ジャーナリストT氏とは長いつきあいだが、こんな話などしたためしがなかった。「しまった」と私は後悔した。いわずもがなであった。「憲兵」にしても遠い話だし、いくら「黒い雨」の井伏鱒二でも、この場面に出すのは唐突なのだった。私は深く恥じた。
 会が終わると私は急に心が重くなった。帰宅すると沈んだ心で井伏鱒二「荻窪風土記」をひもとく。ジャスミンの小さな鉢が花を咲かせている。佳香は春近しを告げていた。
 「(阿佐ケ谷の釣具店」)それからもう一人、小林多喜二のことも私たちは大きな声で喋ると拙かった。多喜二は阿佐ケ谷に移って来ると、ピノチオの常連客の立野信之に連れられて、一緒によくこの店に来た。立野は以前から阿佐ケ谷にゐたので、私たちは古くから知ってゐた。新米の多喜二のことはよく知らないが、もの静かで温厚誠実な男のやうであった。ゆっくり席を立って来て、店の給仕人がするやうに、こちらにビールを注いでくれることがあった。見てくれだけで遣ってゐるとは思へない。古めかしく折目の正しい遣りかたが身についてゐたやうだ。多喜二が亡くなったという速報が伝はった日に、私は外村繁や青柳瑞穂とピノチオに集ったが、刑事がお客に化けて入って来てゐるのがわかったので、私たちはこそこそ帰って来た」。
 この頃(一九三二、三年)「阿佐ケ谷会」(正式には「阿佐ケ谷将棋会」。文人たちの集まり)の溜り場に、「私服」がうろちょろしていたことは「多喜二」を読んでいる者には驚くにあたらない。しかし、異状なことであった。鱒二の文中の「もう一人」の一人とは河上肇のことで河上は一九三三年正月の十日、検挙されている。「一月三十日には独逸のヒトラー内閣が成立した。私たちが日比谷あたりを歩いてゐると、独逸の国旗を立てた独逸大使官員の車に向って、通りすがりの日本将校が挙手の礼をする光景を見ることがあった」「同じその年、小林多喜二の検挙事件が新聞に出た日、私は阿佐ケ谷のピノチオで外村繁と会合して立野信之が成行きを話しに来るのを待ってゐた」と鱒二が書いている。
 多喜二より五歳年長の鱒二は、その後、一九三七年「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を得た。四〇、四一年にかけて私は井伏鱒二と何度か手紙のやりとりがあった。多分、武野藤介の主宰した「コント倶楽部」を通じてだった。詩を読んだり、随筆を見てのファンの手紙に対して儀礼的な返事だったと思う。
 鱒二は三七年に「厄除け詩集」を、四二年に「仲秋と明月」という詩集を出したが、私如きがそれを手に入れるはずはなく、新聞や雑誌の小品を読んでファンレターを飛ばしたものである。
 「厄除け詩集」は三七年五月野田書房の刊。四六判変型の袋綴の和本で百五十部の限定だった。ユーモアとペーソスに満ちた作品で知られる鱒二だが、この詩編も庶民的で着飾ざらず、実にユーモアがあった。杜甫や李白の漢詩の訳を幾つか私は書きとめてある。なんともおかしく、またふんいきがある。次の詩もたぶん「厄除け詩集」のものでなかったか。
 
 コノサカヅキヲ受ケテクレ
 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 ハナニアラシノタトエモアルゾ
 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
 
 第二、第三の嵐が近づいていた。「さよなら」しかない冬の時代が偲ばれる詩である。最後にもらった私へのハガキには「近く軍の指示で南方に立つ」とあったことをいまもおぼえている。万年筆の太字の五、六行程が切羽つまった時代を告げていた。
 この四十歳をすぎたベテラン作家までもが、軍へ狩りだされる時代が来たことに、私は暗澹となった。ましてオレ如きが安閑としていてよいのだろうか。いや、こうしていられないという気もちにさせたものである。
 
   「車夫雑記」てんまつ
 
 一九四一年三月十四日と十五日の東京日日新聞学芸欄に拙文が載っている。物好きの友人が図書館で見つけてくれてコピーを持って来た。四十年たって戦前の私の唯一の「遺品」と相見える気もちは複雑だった。
 当時、すでに新聞は四ページ建てに減ページしていた。広告欄もあるから全くスペースが足らなかった。その関係で私の稚拙な「車夫雑記」は二日間にわたり分載されたのであろう。
 本誌前号に俳人小原杢二氏が「そら豆の木」を書いてあった。四十二年前にみたその「そら豆の木」と対面した話「私の俳句散歩」Eは実に名文でまた感動的であった。私が四十年ぶりに対面した自分の文は穴があれば入りたい程の幼稚さだった。当時の新聞は全十五段のうち、上段の九段が記事面、下段の六段が広告欄である。この日の記事の割付は次の通りである。
 三月十四日号(四面)
 △上一、二段目(全行)「花」吉屋信子(第一二五回)
 △三段目左端「戦争と神経」(三)村松常雄
 △四段日中央「市民道徳の欠乏」(下)中野好夫
 △五段目左端「近世日本国民史」徳富蘇峰
 △六段日中央「車夫雑記」(上)大妻汎八
 △八段目ラジオ欄
 三月十五日号(同)
 △一、二段目「花」(一二六回)吉屋信子
 △三段目右端「小説の新方向」(上)岩上順一
 △同  左端「科学動員緊急策」(一)山本峰雄
 △四段目中央「車夫雑起」(下)
 △五段目右側「二つの知識層」(上)鈴木小兵エ
 △同 左端「近世日本国民史」
 △六段目右側「酒の場所」徳永直
 △七段目左側 俳句欄
 △八、九段ラジオ欄
 「大妻汎八」はたいそうな名であるが私のペンネーム。十四日付は本文三段三三行、十五日付は三段五四行であった。
 若気の誤まち「車夫雑記」の苦々しいてんまつを次に記録しておきたい。
 「凍りばって固くなった地下タビを脱いで上りかまちに腰を下ろしたのが七時ごろ。」
の書きだしで始まり「明日は五時起き。近所の客を停車場まで乗せて行く。」で終わる。文中に何故か「柳ケ谷」という地名が出てくる。鱒二の「阿佐ケ谷」の影響ではないのか。いま読みかえして何んともやりきれない。車夫の生活は画いているがリアリティがない。全くの空想で書いただけ。実態をつかんでいないし、当時の世相を感じさせる意欲的なものもない。そして批評精神はさらさらないのである。東京日日の学芸部には相当変った記者がいて雪国の庶民生活に興味をもったのであろう。
 小林茂夫さんの著書「プロレタリア文学ノート」によれば宮本百合子は「貧しき人々の群」について「貧者に対してもって居た気持の偽である事、偽りの多い生活をして居る事をはずかしく思う」と書き、「私は最後の一節を泣きながら書いた」と日記に記してあるという。宮沢賢治も「泣きながら勉強すること」を詩(「稲作挿話」にしてあるが、文とは「泣きながら書く」ということを私はまだ学んでいなかったのである。
 六月生まれの私はこの時まだ十六歳だったとはいえ、十七歳で「中央公論」へ発表した「貧しき人々の群」とは何んという違いであったろう。(百合子と比較するなんて厚かましい次第だが。)
 新聞社から二十円の小為替同封の書留が家に届いた。伯父の家に徒食する私の奇行悪童ぶりはかなり遠くまで知られていた。伯父の家、すなわち、父の実家は三代続く米穀業であったが、その門口には「ヤマサン」の看板がかくれる程の私の大きな看板「汎文会」が掲げられ、伯父をあきれさせていた。すこし離れて叔母の家は銭湯を営んでいた。当時、湯券は一枚、二銭だったと思うが、それを束にして持って来てはなかまに無料で配り怒られたものである。汎文会は勉強会のはずだが、せいぜいレコードコンサートをひらいて「椿姫」や「冬の旅」などでごまかし、カニ採りやドジョウ採りに明け暮れていた。
 「どんな馬鹿なことを書いて新聞社に迷惑をかけたか」ということになり、初めはそんな者はいないと受取らなかったらしいのだが、宛先の住所が間違いないので、やっと納得した伯父だった。こんどは現金に替えるにあたって郵便局では「大妻汎八」である証明書が必要とのこと。ハンコもなければ証明書もない私は、結局、伯父が役場から同一人であることを証明してもらったのであった。
 そんなことから近所には尾ひれがついて広がったらしい。「あのアウト・ローめ何かをやらかすと思っていたが」という者、「あの馬鹿、またやらかしたか」という者、いろいろだった。
 四月のある日、米つき場で仕事をしていたら帯剣をもて余すようにして憲兵が入ってきた。「大妻汎八」がどうのこうのといいあっている。やがて伯父は座敷に招じ入れる。すでにこの家では一九三七年に戦死者を出し先陣をうけたまわっていた。従兄である。憲兵は仏壇の前でいんぎんになった。私はおそるおそるまかりこす。伯父は部屋を出る。
 開口一番「車夫雑記は誰れのことなんだ」という。明らかに威かくしている。低い声だが鋭かった。私は実在しない人であること、プロレタリア小説を読んでいたら、想像で書いてみたくなったこと、「手記」風のものをこれからも書きたいことを話す。
 憲兵の眼は光った。「誰れだ、お前を指導している人間は」といった。たしかに「カンカン虫」の話をしてくれたひともいたし「蟹工船」や「不在地主」を読めといったひともいる。しかし、憲兵の眼をみたとき、それをいってはならないことはいかにバカな私でも識別できた。
 「そんなひとはいない」と答える。実さい私は受験雑誌と「若草」や「新青年」を交互に読む程度。少し前は「少年倶楽部」の愛読者だった。そして多喜二を読みロシヤ文学をかじったばかり。何故かその頃タンゴやジャズを聴くのが好きというちぐはぐな人間だった。憲兵はいった。
 「よし、ただ読んでいるだけとしておこう」。そういって手帖に何やら書きこんだ。そして時局はいま重大な岐路にあること、国家はおまえたちを遊ばせておく余裕はないこと、御国への奉公に一日も早くつくことを望んでいるというと茶をすすった。
 兵隊狩りの憲兵を見送って、私は金しばりにあったようにぼう然自失した。急に無力感におそわれ、前途を見失った思いだった。目の前の闇が拡大していった。おれたち非力の人間には防ぎようのない波が寄せて来たのだった。なぜか私は母を想って涙をあふれさせた。海にも炎がせまっていた。(「秋田民主文学」12号、1988・7)
 
更新日時:
H20年4月4日(金)


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