吉田朗さんの頁




11    ルポルタージュ・『川反物語』以後
 
 夕刊「読者の声」に「ピンクサロンの呼びこみがうるさくて不快だからやめさせられないか」という投書がのった。(呼びこみに)ひっぱられていったまではよかったが、たいしたサービスもなく、予想もかけない高い料金を払わせられたので腹を立てているというのである。当然のことだが、警察は被害届がない限り、取締りの対象にはしないものか、しつこい呼びこみや、割れる程に騒々しい太鼓やラッパの響きは一向に衰えない。
 ピンクサロンだの、呼びこみだの、サウンドだのということば自体、数年前まではわが川反ではあまり聞かなかったことである。すくなくともこの『川反物語』が書かれた三十九年ごろは、まだ二丁目と三丁目のあいだをちんちん電車が横切っていて、その音が五丁目あたりでも聞こえていたし歴史の重みを備えた料亭の前はその格式にふさわしく一定の情緒をかもしていて私ども貧乏人を圧していたものである。
 「うなぎの寝床」といわれる旭川べり、約五ヵ丁続くこの歓楽街は、好不況に影響を受けながらも、それなりに一円の小世界を形成していた。その川反は『川反物語』以前と以後ではハッキリ変化が起きている。
 その大なるものは
 一、川反に近かった県庁・市役所が官庁街に移り、客足が二、三割遠のいたこと。(山王にバーや飲食店が増えはじめている。待合政治が批判を受け減少。)
 二、いわゆる「水商売」が一般化し、脱サラと称する素人商売が流行、職業意識は二の次の「利益優先」を先行させる店がふえていること。(もっとも経済の成行きはそのことを余儀なくさせている。)
 三、全国チェーン店などのような外部資本が進出。むかし、内町だの外町だのと呼んだ城下町秋田の情緒など気にかけないでリアルな経営ができるようになった。
 四、ヤングや婦人層をねらった「飲食ビル」がうまい料理、ガラスばり料金といった新感覚派に人気が集中して来た。かつて政治家や地元のお大尽たちによって維持されていた川反はもはや庶民を忘れては商売が成り立たないことを語っている。
 五、有楽町や横町が川反の延長線として賑わいはじめた反面、川反二丁目や名店街は分離し、前記、山王や駅前に分散しはじめた。
 
 ●問題な中央化の波
 
 最近開店したあるピンクサロンの権利金は六百五十万、家賃二十万だったという。あまりにも騒々しいので近所のひとは「殺し屋だ」とイキまく。「飲み放題、三十分二千五百円」に釣られて入ってみたらビール二本飲んで軽く八千円突破。テーブルへ坐ってなかなか女が来てくれず、そのうち「時間延長しませんか」と来た。まっ暗になったので何かいいことでもと助平根性を出して待つうち、三十分刻みだから「あっ」と言う間に料金は三倍となったというわけ。
 サービス低下はなにもピンクサロンに限ったことではない。心のくばりはおしぼりにも表われるし、客を扱う顔や話にも出る。問題は中央化の波に押しやられ、秋田独自のローカル性や心を失い、残すべきものを捨てたときどうなることかということ。
 
 ●特殊社会でない川反
 
 そういってしまえばおしまいかもしれないが、水商売は元来健全な職業とはされなかった。それがいつの頃から普通の会社や商店と同じような見方がされるようになったのだろう。女の子は店員や事務員になるのと変らない気もちで食堂へ就職したりスナックへ勤める。川反は特殊社会ではなくなったのである。
 しかし例えばバーのホステスのように四時間程度の働きで三十万、五十万と稼ぎ、人並以上の暮らしができるとすれば、私どものような庶民感覚では普通の職業とはうつらない。水商売はむかしは年中無休だった。朝に始まって夜で終わる一日の仕事をすませ、浮き世のうさをはらしに縄のれんをくぐる人間どもを女給さんは大事に扱ったものだった。あるひとはこう教えてくれた。「芸者商売こじきに劣る、こじき夜寝て昼かせぐといってな。お日さんが沈むまでが正業。昼間かせぐのがまっとうだった」。
 水商売といえどもいまは週休。第一、第三のみ休んでいる職人などからみればその点に関してはまっとうとなった。
 
 ●水商売もアマチュア化
 
 ここに川反五丁目の案内図がある。タテ線一本に対して横線は八本。「五丁目銀座」「美経小路」「祇園街」と呼ぶ小路がそれである。バーまたはクラブと名のつく店は約百二十。看板や構えは同じでも経営者はいつも同じではないという。今春はその交替が最も多かったといわれる。ふだんの月でも十店は入替わる。
 そのせいかどうか。商売がアマチュア化し氷のカキかたも知らないバーテンが多いと嘆く人がいる。客の方も水割りした飲まないからバーテンがいらなくなったのである。生活がレベルアップして口がこえたものか、カクテルをいまのひとは飲まない。バーテンがプロか否かはカウンターへ入っていけばわかるもの。プロでない以上このバーテンには氷がかけないのである。
 そういえば、すべての商売にプロフェッショナルがいなくなった。すこしばかりの才覚を鼻にかけ修練もそこそこにある日「なになにを始めました」という。度胸があるといえばあるといえるが、むかし風にいえばこれを「チョコ才」という。芸者でいえばいまはもういなくなりコンパニオン全盛となった。「なんとかスナック」はあっても人生の裏表を知った苦労人などこの世界では数える程しかいなくなったのである。
 
 ●混然一体川反風俗
 
 「人生の裏表」といって見たが、いったい、プロはどのようにできていくものであろうか。この道についてその修業のプロセスに分け入って見ると、けっしてキレイごとではないことが想像できる。
 コップ磨きや皿洗い、便所掃除から始まるにちがいない。人のいやがることに進んで取り組み、意地悪い先輩の眼に耐えてせっせと働く。手指を血だらけにしてカクテルの氷をつくった。カウンターやテーブルにゴミ一本残してはならない。時には酔客がケンカを始める。寝ころんだ客の処置。楽しみに来てくれる客の気分を大切にしてやるのがその根本である。こうしてたたきあげる本来の水商売はカッコいいなどとあえてやるべき職業ではなかった。まともにやれる商売でないから社会の片スミでささやかに生きていこうという意識が必要だった。表の文化に対して蔭の文化を受持った。
 むかしの職人の一日の手間は酒一升買う程度とされたものである。まともに働きその程度の収入を得た人間が川反へくるのである。腕によりをかけてサービスするという道義があった。彼らがどんな遠方でも飲んだあと満足して歩いて帰ったのはいうまでもない。川反風俗は飲む方も飲ませる方も混然一体だった。
 
 ●よく売れたハタハタ
 
 これ程騒々しいのに世の中は一見「太平風」だ。不況にもかかわらず去年の暮れは川反は忙しかったという。そして不漁のハタハタ料理が飲み屋ではよく売れた。家で食えないものがここでは注文が多くなる。子連れ、恋人同士、夫婦連れといった層が押しかける。極端にいえば飲み屋などというところは男性のトイレがあれば事足りた時代からすれば何いう変り方であろう。見方を変えれば不況で一泊どまりになり、一泊どまりを節約して川反へということも成り立つ。男たちは女にもてた話、女をかまった話を自慢する。ナンバー・ワンの女がその座を保つためにどんな手を打っているか。そしてナンバー・ツーは―。栄枯盛衰のはげしいこの社会ではさまざまのシーソーゲームがくりひろげられる。
 
 ●船頭さんが見たら
 
 ギターをつまびきながら袖をひかれて歌う「流し」が川反から消えたのはつい先ごろのことであった。空前のカラオケ時代というわけ。ネコも杓子もとあって、十人も入れば満員のスナックや居酒屋でさえも設備して客待ち顔である。
 かつては米の集散地に集まる船頭や船大工あいての川反であった。酔う程に民謡の一曲もという場面はザラだったことであろう。マイクを持って歌う男たちを船頭さんが見たらどんな思いをするやら。
 
 ●意識のちがい今と昔
 
 大小約十店あるキャバレーは年中無休が建前だ。結婚して失敗し子ども連れといった女には託児所まで用意してある。好きでこの道へ入る人もいるだろうし、生活のためというひともある。辛抱して働けば手っ取り早いところ一晩に安くて一万円はかせげる。素人の女が半年も経てばお化粧して希望に燃えてという場面によく出くわす。「濡れ手に粟」の時代とちがい、稼いだ金をコツコツ貯めて小さなバーの権利を買う。川反に働く男が約千人とすれば女はその三倍といわれる。そのうちの何人かがマダムの栄冠を得るのであろうか。
 渡り者の女は約二割という。その関東から来ているという女から聞いた話。「秋田の人は飲むし食うしぜいたく。寒い国のせいか腹を見せないのがイヤ。腹に残しておくのは健康にも悪いんじゃないの。でもこの商売、秋田ならもうけられるかも」。
 水商売に身を置くとなれば、相当の事情でもなければというのはむかしのこと。一大決心をして身売りし、やがて転落した時代とちがい意識の変った今日、結局は職業意識、目的意識がこのひとたちを支えているといえようか。
 もっともバーでもうかって城のような新居を構えたひと、アパートを建てたひとのいる反面、余裕がつくとバクチや女でお決まりのコースというひともいる。
 
 ●川反人の心意気その典型
 
 川反で納豆ラーメンといえば音に聞こえた店である。その名は「●(七の喜)楽」。開店が昭和四十二年というからこの界わいでは古参の方である。店主の倉持宇吉さんはもともとは茨城県は猿島郡のひと。気風とめんどう見のよさが評判だが、彼自身の自慢は麺が自前だということ。材料を自分で整え、独特の調合で仕込みする。「鹹水」といった薬品は絶対使わない。製粉会社からまでも、その製法の秘密を聞きにくるがこれは秘中の秘。ほとんど宣伝はしないが、固い常連客に守られ、大きくもならず小さくならず目抜き通りで「川反世相」を眺めながら暮らしている。
 二十三歳のとき戦時中に知り合った十文字の友人を訪ねて秋田県へ移住、製材所の手伝い、魚屋、パチンコ屋、食堂など苦労を重ねて金を貯え、昭和三十一年秋田市の駅前市場にラーメン屋を開業、現金商売を大切にした結果、川反への進出を果たすことができた。
 この倉持さん、去る三月十三日県民会館で開かれた「危機突破重税反対県民大会」では大演説をして拍手かっさいだった。ふだん経験している税制改革運動と一般消費税や税務署の事前事後調査などの関連について体験発表したものだが、その真剣さ、その生き方の片りんがことばのはしはしに表われて千数百の参会者に感動を与えた。
 彼の商売に対する哲学は「価のあるものを客へ出すこと。高くてもうまいもの、腹をすかしてくる客を満足させること」という。また「勤め人だったら使う上司ひとりのことを考えればよいだろうが、水商売はお客さんみんなが上司。お客さんひとりひとりからすこしずつ給料をもらうんだから神経を使うわけ」。
 含蓄ある「●(七の喜)楽」主人の心意気を掲げて私の駆け足川反繁盛記を締めくくる。(以下略)
 
*注 以前『川反物語』の再版の話が出たが、初版の時の写真が見つからなかったりして、結局出せずじまいになってしまったが、吉田朗氏の「まずは七十九年の川反、せまい視野ながら見たまま聞いたままを記して捕捉した」文章が残っていたので、参考までにアップした。
更新日時:
H19年7月1日(日)


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